一水四見 多角的に世界を見る
小倉孝保

第6回 フランスが不便な辞書を作り続けるわけ
パリ・シテ島にあるノートルダム大聖堂はゴシック建築の至高とされる。ここが大火に包まれたのは2019年4月だった。惨事から5年8カ月が経過し、修復はほぼ終わった。8日からは一般公開も始まっている。
その約3週間前、もう一つ仏文化の伝承を印象付けるイベントがあった。学術団体アカデミー・フランセーズ(AF)が長年編集を続ける仏語辞書「アカデミー・フランセーズ辞書」の第9版が完成したのだ。AF本部で11月14日に開かれた式典にはマクロン大統領も駆けつけた。
AFはルイ王朝期の1634年、文化・芸術を重視する宰相リシュリューによって設立された。辞書を作成し、標準仏語を後世に残すことが目的である。第1版の出版は今から330年前の1694年だ。日本では徳川5代将軍・綱吉の治世である。
その後、改訂作業は続き1718年に第2版、1740年に第3版が出た。18世紀の市民革命やその後の混乱、20世紀の大戦を経ても、辞書は断続的に編集され、第8版の出版は戦間期の1935年だった。今回完成した第9版は1986年に編集がスタートしていた。
欧州では17世紀、辞書を作って自国語を標準化する動きが強まった。その役割を担ったのが各地のアカデミー(学士院)である。
フィレンツェのクルスカ学会が最初にイタリア語辞書の編集をスタートし、AFはそれを追いかけるように作成に挑んだ。
英国では、英語にさほど興味のない国王がいたこともあって、人文科学系のアカデミー設立が遅れた。言語学協会が英語辞書の作成に着手したのは19世紀中頃で、1928年に「オックスフォード英語辞典(OED)」第1版として結実している。

オクスフォード大学出版局
私はロンドン特派員だった2012年から3年あまり、OEDを含む欧州の辞書作成史に興味を持ち、取材を続けた。帰国後に書いたのが『100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む』(プレジデント社刊、現在は角川ソフィア文庫)である。
辞書の編集に当たる言語学者たちは、時代ごとに言葉の意味を確定しておくべきだと考えていた。「文化・伝統の基礎は言語である」と確信していた。グローバル化の影響が避けられない今こそ、自国語の標準化は重要性を増しているのだ。
ただ、時間をかけて辞書を作るため、「社会の変化に対応していない」との指摘もある。AFの第9版は編集開始から38年が経過している。その間に意味の変化した言葉も少なくない。
例えば「Mariage(結婚)」である。フランスでは2013年、教会の反対を押し切り同性婚を認めているのに、この辞書では従来通り、「男性と女性が夫婦になること」と説明している。「M」を頭文字とするページの編集は、婚姻に関する法律の改正前に終わっていたためだ。
インターネットの普及などで、外国語起源の言葉が大量に加わり、第9巻に収められた見だし語約5万3000のうち約4割は新収録である。
それでも言葉の増加に追いつかず、ネット辞書などに収録されている「Vlog(動画版ブログ)」「Smartphone(多機能携帯電話)」「Emoji(絵文字)」などは未収録である。
便利で使い勝手の良い辞書なら、民間の出版社に任せておけばよい。最近では、オンライン辞書も充実している。
アカデミーが国費を使って脈々と辞書を作るのは、そもそも便利さのためではない。言葉の意味を確定し、その根拠を示すことで、自国文化を保護、伝承するためである。AFは「役に立たない」の批判をよそに、第10版の制作に向けた協議を始めている。

中世ラテン語に関する著書

小倉孝保(おぐら・たかやす) 毎日新聞論説委員
1964年生まれ。毎日新聞カイロ、ニューヨーク、ロンドン特派員、外信部長などを経て現職。小学館ノンフィクション大賞などの受賞歴がある。