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日本被団協 ノーベル平和賞
──危うくなった「核」タブーへの警告
青来 有一(作家、元長崎原爆資料館館長)

原爆犠牲者を追悼し、人類の平和を願う長崎の平和祈念像

政治・外交

遅すぎた被爆者の受賞

◇二つの核大国リーダーは早々と受賞
 日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が2024年のノーベル平和賞を受賞した。受賞理由は、核兵器の使用をゆるさないとする強力な国際規範、いわゆる「核のタブー」の確立への貢献が主な功績とされる。

 ノーベル平和賞は反核の立場から個人、団体に授与されてきた。日本では非核三原則の提唱で佐藤栄作元総理(1974年)が受賞している。当時、国民の反発も多かった佐藤総理の受賞に日本中が戸惑ったような記憶がある。核戦争防止国際医師会議(1985年)や、イギリスの科学者、ロートブラット博士とパグウォッシュ会議(1995年)も広く知られている。核兵器禁止条約の成立に貢献した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」(2017年)は記憶にまだ新しい。

 旧ソ連のゴルバチョフ元大統領(1990年)も中距離核戦略の削減などの功績で受賞している。「核兵器のない世界」の理念を訴えたオバマ元アメリカ大統領(2009年)は、就任からまもない受賞で賛否が渦巻いた。

 二つの核大国のリーダーが受賞しているのなら被爆者団体の受賞も当然だろう。被爆者が高齢となった今、受賞はむしろ遅すぎたかもしれない。

被団協のノーベル平和賞授与を大きく伝える主要紙

◇孤立して困窮……浮かび上がる苦難の歴史
 「日本被団協50年史 ふたたび被爆者をつくるな」からその道のりをたどると、被爆者の苦難の歴史が浮かび上がってくる。

 1945年9月、日本は降伏文書に調印、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下におかれた。米国陸軍調査団のファーレル准将は、放射能の後遺症はない、原爆症で死ぬべきものは死んだと断言して被爆者の存在を無視した。まもなくプレスコードを発し、新聞や出版、報道などを検閲する一方、米原爆傷害調査委員会(ABCC)を設置し、原爆による放射線被ばくの影響の調査を始めた。

 GHQにも放射線の影響はわからなかったのだ。被爆直後の急性期障害の後にも、低線量の放射能障害は生涯にわたって続き、その人体への影響は今もよくわからない。「黒い雨」の影響などどれほどの範囲に広がるかも議論がある。被爆者とはだれなのか、ほんとうはよくわからないというのが事実なのだ。

 被爆者も、自分の身になにが起っているのかわからないまま、原爆ぶらぶら病とも揶揄された無力感、脱力感に苦しみ、社会的な困窮に追いこまれた時期もあった。占領期から被団協が結成される1956年まで被爆者は戦後復興していく社会から忘れ去られていた。その声は世の中に届かないで、もどかしい思いを抱えたまま沈黙せざるえなかった。

 長崎平和祈念像の完成時(1955年8月)、「原子野に屹立する巨大な平和像」を見た詩人の福田須磨子は「ひとりごと」と題した詩で「そのお金で何とかならなかったかしら/“石の像は食えぬし腹の足しにならぬ”/さもしいといって下さいますな/原爆後十年をぎりぎりに生きる/被災者の偽らぬ心境です」と書いたが、それは孤立して困窮してきた被爆者の率直なつぶやきにほかならなかった。

長崎市の原爆落下中心地碑。上空500メートルで原爆が炸裂し、多数の尊い人命を奪った

◇「第5福竜丸」の被ばく契機に始まった原水爆禁止運動
 1954年3月1日、南太平洋のビキニ環礁で、アメリカは水爆実験をおこない、太平洋の広範な海域に放射性廃棄物「死の灰」が降り、日本のマグロ漁船「第5福竜丸」が被ばくした。水揚げされたマグロには「原子マグロ」の貼り紙がつけられ、放射能の雨が観測され、世の中はパニック状態になった。核兵器と放射能の恐ろしさを人々がほんとうに身近に感じたのはこの時だ。肌身に迫る恐怖から原水爆禁止運動は始まった。広島と長崎の被爆者の声を聞いて人々が動いたのではない。「第5福竜丸」の乗組員の被ばくした姿の背後に、広島と長崎の被爆者の顔がようやく見え始めたのだ。

 第1回原水爆禁止世界大会(1955年8月)が広島で開かれ、翌年、被団協が結成された。結成大会(1956年8月10日)の宣言にはこう記されている。

 「今日までだまって、うつむいて、わかれわかれに、生き残ってきた私たちが、もうだまっておれないでてをつないで立ち上がろうとして集まった大会なのでございます」

 「同胞の皆さんや、世界の皆さんたちにかすかな声が聞きとられて、私たちに温かいまなざしが向けられ愛の手がさしのべられはじめてから、私たちは急に元気づいてまいりました」

 なんと慎ましく控えめな結成宣言だろう。「だまって、うつむいて、わかれわかれに、生き残ってきた私たち」という自己規定に被爆者のそれまでの孤独な姿が浮かび上がってくる。

◇イデオロギー対立乗り越え、援護法制定目指す
 原水爆禁止の運動とともに、緊急の医療措置、被爆者援護法の制定を目指して、被爆者は結束して運動を始めた。しかし、結成の大きな原動力となった原水爆運動に内部対立の亀裂が走り、被団協は大きな試練にさらされる。

戦後(1959年)再建された浦上天主堂と、旧天主堂の外壁の一部。被爆して焼け焦げた像も残る

 ソ連が核実験(1961年)を再開し、社会主義国の核実験は、平和を守る防衛手段で、帝国主義国と同一視すべきではない、とする共産党の考えを支持する勢力と、「あらゆる国の核実験に反対する」という社会党・総評系の考えの勢力が対立、原水爆禁止日本協議会(原水協)から原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が分裂(1965年)、広島県被団協も分裂し、日本被団協の運動は休止に追いこまれる。

 被団協の再生は、原爆被害とはなにか、その本質を明らかにすることから始まった。爆風、熱線、放射能の複合的障害とする「原爆被爆の特殊性」、そこから派生する「原爆と貧困の悪循環」、そして原爆投下は国家の責任であって国家が補償すべきだという、今日も運動の柱となる考え方をまとめ、被爆者援護法を求めていく。「被爆者であること」のつながりを結びなおし、政治的なイデオロギーの対立を乗り超えて分裂をまぬがれたのだ。被爆者としてのアイデンティティを支えに被団協は再生し、国際社会に核兵器廃絶を恐れることなく力強く訴えるようになった。

◇「ノーモア・ヒバクシャ」───国連での訴え、どこまで響いたか
 第2回国際連合軍縮特別総会(1982年)の山口仙二代表委員の演説はひとつの頂点だろう。ケロイドで歪んだ自分の顔を直視するようにうながし、山口代表委員は核兵器廃絶を訴えた。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャマ」の絶叫は議場に響きわたり、拍手に包まれた。ただ、なにかふしぎな静けさも感じる。大きな空洞でその声だけが反響しているようでもある。

 当時の映像をよく見ると会場には空席が目立つ。冷戦の時代、被爆者の話など無視したらしい。核保有国や核の拡大抑止(核の傘)に安全保障を頼る多くの国々は、被爆者の顔を見ようともしなかったのだ。冷戦は終わったが、今また対立の時代を迎え、彼らは、被爆者ではなく、核兵器ばかりに目を奪われている気がしてならない。

写真は国連本部

◇「核廃絶」──夢物語だと冷笑するな
 ウクライナに侵攻したロシアは、核拡散防止条約(NPT)を踏みにじり、核の威嚇をくりかえし、最近、プーチン大統領が核使用基準を引き下げたという報道も流れた。使いやすい核、小型の核弾頭を搭載した戦術核兵器もすでに配備されている。

 被団協のノーベル平和賞の授与は「核のタブー」が危うくなった現状への警告でもある。自らが経験した人間の悲惨を語ることで、被爆者は核兵器の威力に囚われている国家の代表や政治家の想像力を解き放とうとしてきた。核廃絶など夢物語だと冷笑すべきではない。核兵器は政治的想像力の貧困をまねき、外交をやせ細らせる。人間と人間、国家と国家の多様なつながりを断ち切ってしまう。

 被団協がノーベル平和賞を受賞し、高齢の被爆者の証言に世界の人々はあらためて耳をかたむけるはずだ。核保有国の代表もそろそろ席についてはどうか。被爆者の顔を見つめ、彼らの話に耳をかたむけてほしい。新しい時代の平和を築いていくための交渉を期待したい。

【略歴】
青来 有一(せいらい・ゆういち) 作家、長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)客員教授
1958年、長崎市出身の被爆2世。長崎大学教育学部卒。長崎市職員の傍ら、被爆の実相や隠れキリシタンなど長崎の水脈を掘り下げた小説を長年執筆。平和推進室長、長崎原爆資料館館長などを歴任し、2019年に定年退職。創作の傍ら、母校の教壇にも立つ。1995年、「ジェロニモの十字架」で文學界新人賞。2001年、『聖水』で芥川賞受賞。2007年、『爆心』で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞をそれぞれ受賞。主な著作に『月夜見の島』『てれんぱれん』『悲しみと無のあいだ』『小指が燃える』(いずれも文藝春秋)、『眼球の毛』(講談社)、『夢の栓』(幻戯書房)、『人間のしわざ』(集英社)など。最新作は「独りよがりの空まわり」(季刊『三田文学』2024年秋季号所収)。

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