グローバル・アイ
西川 恵(ジャーナリスト)

イラン・イスラム共和国の初代最高指導者を祀るホメイニ廟
第11回 イラン・イスラエルの武力衝突と米国の介入
イランとイスラエルの武力衝突に、米国が介入した。これはイラン・イラク戦争(1980年9月~88年8月)末期の構図を私に思い起こさせる。
イラン革命(79年)の翌年に、イラク軍の突然の侵略で始まったイラン・イラク戦争。イラクのサダム・フセイン大統領には革命で混乱するイランの隙を突けば、油田地帯を易々と占領し、自国のものとすることができるとの思惑があった。一時、イラク軍はイラン領内深く侵入した。
しかし案に相違して、侵略はイランのナショナリズムに火を点け、イランを結束させた。イランの国軍と革命防衛隊に加え、民間のボランティア兵も戦線に馳せ参じ、ジワリジワリとイラク軍を国境まで押し返した末に、イラク領内に逆侵攻した。
私が特派員としてイランの首都テヘランに赴任したのは戦争2年目の時で、直後にイラン軍の逆侵攻が始まった。毎日、テレビやラジオで報じられる戦況をイラン人助手にフォローさせ、それを中東情勢と絡ませて原稿にし、東京に送った。

イラン国旗
マスコミを管轄するイスラム指導省からは毎月、「どこどこの戦場にあす行く。希望する特派員は朝6時にテヘラン空港に集合」と連絡が入った。獲得した占領地を外国特派員に取材させ、イラン側の戦果を世界に知らしめるためだ。
「戦場ツアー」と特派員仲間の間で自嘲気味に言っていた前線取材は危険な仕事だった。テヘラン空港から兵士も同乗したイラン軍の輸送機で戦場近くの飛行場まで飛び、そこから車を連ねて最前線へ行く。制空権はイラク軍が優勢なため、「イラク軍機接近」の無線が入ると、輸送機は急降下で付近の空港に緊急着陸した。
最前線で取材中、イラク軍側から一斉砲撃を受け、穴に飛び込んで身を縮めていたことも何度かあった。たまたま私が参加しなかった戦場ツアーで、1人が地雷に蝕雷し、後ろを歩いていた同僚の朝日新聞の特派員が破片で重傷を負う事故もあった。この時、インド人ら外国人ジャーナリスト2人が死亡、数人が重傷を負った。もし自分が参加していたら、その1人になっていただろうと思ったものだ。帰途の輸送機には、死体を入れた布袋が足元の床に幾つも転がっていた。こうして毎日、戦死者を首都まで運んでいるのだった。
イランはおびただしい戦死者を出していた。経済制裁で使える兵器は限られ、人海戦術でこれを乗り切ろうとした。イラク軍の地雷原を、まず小中学生ぐらいの年頃の少年兵を走らせ、命と引き換えに地雷を無力化し後を正規兵と戦車が続いた。
少年たちは全国の学校から募り、教師たちも「国のために志願しよう」と呼びかけた。少年たちは「神は偉大なり」の鉢巻きを締め、「神の国に行く」と言って地雷原を走ったという。イランの新聞には少年たちの英雄譚が毎日載った。捕虜となったイラク兵は私の取材に「倒しても倒しても次々とイラン兵が湧いてきて恐怖だった」と語っていた。
私は2年のテヘラン勤務を終えて東京に戻った。戦況は次第に国際社会の支援を受けたイラクに傾き、イランは押されていく。1987年に国連安全保障理事会は停戦決議を採択。イラクは直ちに応じたが、イラン政府内では1年にわたり激論が交わされた。
最高指導者ホメイニ師を頂点とする革命防衛隊幹部ら革命派の保守強硬派は「侵略され、国土を荒らされた。イラクが賠償に応じない限り停戦すべきではない」と徹底抗戦を主張。一方、後に大統領になるラフサンジャニ師らの現実派は受け入れを説得した。それは米軍の戦争への本格介入のリスクだった。
米軍は多数の艦船をペルシャ湾に展開し、88年7月,ホルムズ海峡で290人搭乗のイラン旅客機をミサイルで撃墜した。米軍は「イラン戦闘機と誤認した」と釈明したが、現実派は「停戦を受け入れろという米軍の警告だ。米軍が本格介入したら、革命自体が潰される」と説得した。体制を守るために我慢すべきだという説得だった。

首都テヘランの街並み。中央はミラードタワー
その説得に、ホメイニ氏は「毒をあおるより辛い」と言って停戦受諾にOKを出した。イランにとっては事実上の敗北だったが、「同師が言うなら仕方がない」と保守強硬派も従った。
いまイランでは対イラク戦争末期と同様、保守強硬派と現実派の激しい綱引きが続いている。この1年余、イスラエルとの対立が深まる中で、保守強硬派が主導権を握り、現実派は脇に追いやられていた。しかしここにきてトランプ米大統領の停戦提案をイランが守っているのは、米軍の介入でさらに軍事的に劣勢になったため、保守強硬派が後退し、現実派の発言力が増している証左だろう。ハメネイ師が体制の行く末を危ぐした可能性もある。
イラン・イララク戦争が終結した後、慢心したイラクのフセイン政権は湾岸危機・戦争を起こし、自壊していった。イランはこれを横目に、平和的環境をバックに国の再建に傾注した。国際社会の関心もイラクに注がれ、イランはもはや視野の外だった。
今回はそうはいかない。どれだけ米軍の空爆が核開発を遅らせたにせよ、国際社会の関心はイランに注がれ続ける。イスラエルがイランの核武装を許すはずもなく、イラン国内の諜報活動を強化していくのは間違いない。イランとイスラエルの緊張した関係を軸に、これに米国が軍事的に絡む。これが今後の中東の基本構図になるだろう。

西川 恵(にしかわ・めぐみ) ジャーナリスト、毎日新聞客員編集委員
1947年生まれ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を歴任。フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。公益財団法人・日本交通文化協会常任理事。著書に『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)など。