• HOME
  • コラム
  • 外交裏舞台の人びと 鈴木 美勝(ジャーナリスト)

外交裏舞台の人びと
鈴木 美勝(ジャーナリスト)

那覇空港でワトソン高等弁務官と握手する佐藤栄作首相、右は田中角栄自民党幹事長(1965年8月21日、沖縄県公文書館所蔵)

コラム

第18回 1969沖縄返還問題日米交渉
  ──<表>と<裏>の構図⑩
 ■『佐藤日記』欠落部分の謎

◇裏舞台外交の初仕事──若泉の落胆
 1969年6月初旬、沖縄返還に向けた日米交渉第1ラウンド・表舞台外交が幕を上げてから約1カ月半。「密命」を帯びて訪米した若泉敬は裏舞台外交の初仕事を終えて帰国、7月25日午前、首相・佐藤栄作と首相公邸で密かに会った。若泉は、いつものように首相官邸と同じ敷地の裏手、通称「開かずの門」をくぐり、総理首席秘書官・楠田實の案内で公邸応接室に入った。ワシントンでは、米大統領補佐官キッシンジャーに密使として初めて接触した若泉は、会談の結果に「完全に満足していた」[註1]。が、帰国時に全身を満たしていたその高揚感は、佐藤と話しているうちに消え去った。

「密使」として訪米報告をしていた頃の若泉敬(伊藤隆著『佐々淳行・「テロ」と戦った男』ビジネス社刊より)

 その朝、首相は、定例の閣議が終わると公邸へ移動し、10時半頃、若泉の前に現れた。若泉はまず、キッシンジャーと会った際に渡した自身の「メモランダム」の日本語訳を渡した。ところが、それに目を通した首相の反応は意外なものだった。その2週間ほど前、訪米に先立って会った際(7月10日)に、佐藤が示した反応と違っていたのである。若泉がキッシンジャーとの会談での最大の成果と考えていたホワイトハウスとの極秘ルート「ホットライン」開設について、佐藤が「それほど乗り気でない」との印象を受けたのだ。10日に会った時、佐藤は確かにその必要性に「同意していたにもかわわらず」である。佐藤の真意に対して若泉は疑念を抱いた。

 この極秘ルートを「いくつかの情報網の一つとしての位置づけしか認めていないのではあるまいか」。若泉は佐藤の反応に不満だった。「せっかく苦労して直通チャンネルを開設してきたのに、その意義を十分認めない、あるいはよく理解できないとは」……。「なんと鈍感な人だろう」とまで感じていた。[註2]佐藤の反応に対するこの手厳しい評価からは、若泉の落胆ぶりと併せて、彼が考える「大義」と佐藤からの「密命」をめぐる軽重のズレが伝わってくる。

◇佐藤「秘密協定は難しい」
 若泉の報告を詳しく聞いた佐藤は、大統領との個人的信頼関係(相互信頼)を基礎[註3]に「日米友好関係を堅持するのが自分の信念である」と、いつになく強調した。そのうえで 「どうしても“核抜き返還”でいきたい。沖縄について、特別の協定を結ぶようなことは、難しい」と改めて強調した[註4]。

 その一方で、「しかし」と付け加えた。「基地の“自由使用”は日本の国益から判断して、有事に必要なときがあるかもしれないとは考えている。とくに韓国だが、場合によっては台湾のことも考えておかねばなるまい。じつは、岸内閣の安保改定のとき、岸[信介首相]と藤山[愛一郎外相]とが秘密協定を結んだのではないかという噂が出たが、自分はそういうことはしたくない。[太字、引用者──佐藤は「噂」という表現を使ったが、実際は外務省から具体的なブリーフを受けている]どだい、そんなことはいまのわが国では無理な話だ」[註5]
 若泉は佐藤の気持ちを理解しながらも、改めて次のように指摘した。「しかし、ホワイトハウスは、なんらかの形でそういうものがないと、肝心の“核抜き返還”は保証できないと言っていますが」。佐藤は終始、渋い顔をして聞いていたが、若泉が重ねて言葉を継いで覚悟のほどを探ると、「もうちょっと考えてみよう」──ポツリと答えて、この件を終わらせた。

◇若泉「多少の秘密取り決め」仕方ないのでは……
 この頃の若泉は、米側が「核抜き返還」の不可欠の条件として「具体的な保証」を突き付けてきた場合、無下むげに断われないだろうと考えるようになっていた。「多少の秘密取り決めのようなものがあっても仕方がない」「何らかの妥協策は国際社会での熾烈しれつな外交交渉の常ではないか」[註6]と。
 この日の佐藤との密談は、極秘の訪米報告とそれを巡る話し合いが約2時間行われた。ところが、不思議なことに、『佐藤榮作日記』には一言も触れられていない。なぜか。
 「七月二十五日 金 閣議。特記事項なし。しかし総評の定期総[大]会が終り、その決議事項が今後どの様に運営されるか注意を要するので、[官房長官の]保利[茂]君に対策を命ずる。昨夜の強行採決を巡り社会党と愈々いよいよ対決すべき時となり、夜七時半すぎ本会議をむりやりに開き、牛歩戦術になやまされるが、参議院対策もあり、の際衆議院でもそれぞれ徹夜国会に入る。一寸ちょっと顔を出して、十一時半休憩に入った処で帰る。」(太字—引用者)

地下発射基地でメースBミサイルの作業をする技術者(1962年4月、沖縄県立公文書館所蔵)

 以上が、その日の全文である。わざわざ「特記事項なし」と記してあるだけで、「来訪」の事実すら書かれていない。
 一方、佐藤の最側近、楠田の『日記』には、次のように記されている。「7月25日(金) 閣議後、公邸で若泉敬氏に会ってもらう。若泉敬氏はたいへん秘密保持の点を気にしている。少し度が過ぎているようだが、それも立場上、仕方がないのだろう。ワシントンにおける秘密接触の話の中身は聞かなかったが、「やはり行って良かったと思います」とのこと。国会は延々、さみだれ牛歩。」
 首相官邸裏に待ち構えていて若泉を公邸に案内した楠田の日記には書かれていたのに、『佐藤日記』には会った事実の言及すらない。同様に、「佐藤-若泉の秘密会見(密談)」が欠落しているケースは、表舞台での日米交渉がヤマ場に差し掛かった「9月16日」にもある。謎である。

◇若泉「核抜き返還は譲れません」
 もう一つの謎といえる9月16日の「佐藤-若泉の密談」は、どのような情況の中で行われ、何が話し合われたのだろうか。若泉が精魂込めて書き残した『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』には、次のように記述されている。
 「この総理との会見は、十六日、定例の閣議の前、午前九時かっきりにいつもの公邸の小さな応接室で始まり、いつものごとく差しで五十分間行われた」
 この日の密談では、佐藤が、直前まで行われていた日米交渉第3ラウンド(9月12日-15日までの間、2回にわたった愛知〔揆一〕・ロジャーズ外相会談)に関連して、外務省の「公電」を手渡した後、口頭でも日米交渉の現状を若泉に伝えた。事前協議に絡んで沖縄米軍基地からの軍事行動、基地使用に関して、韓国と台湾の場合はほぼ合意に達し、今後、共同声明にどのような表現で書き込むかを詰めていくことになったという。[註7]だが、若泉が「死活的に重要」として最重要のテーマとして佐藤に強調したのは、やはり核の問題だった。

 佐藤がベトナムの問題を話し終えるや否や、若泉は切り出した。以下が若泉の『他策』にあるやりとりだ。
 「核抜き返還は絶対に譲れません。(略)ただ、問題は、核を抜かせたあと、緊急非常事態の際、核をふたたび持ち込むというアメリカ側の話です」。続けて、若泉はやや苛立いらだたしい思いで迫った。「総理は事前協議で話をつけるとおっしゃっていますが、前にも報告しましたように、向うが、その場合日本のイエスをどう具体的に保証してくれるんだと迫ってきた場合はどうされますか。その可能性が大いにあります」
 しかし、佐藤はニクソンとの「相互信頼」を基にやり切るという姿勢を崩さなかった。ひと呼吸入れた後、やや、つっけんどんに答えた。「本当にどうしても必要なら、その場合はイエスと言うに決まっているではないか」

◇佐藤「君、最後には天皇陛下だよ」
 納得のいかない若泉は、念を押した。「ポスト・佐藤、つまり後継者を拘束するような保証をきちんとしてもらいたい、と要求してくるかもしれませんよ」
 「それは、君、友好親善の基礎ができ上っていれば大丈夫ではないかね。自民党政府が続いているかぎり、大丈夫だ」と反論する佐藤に対して、若泉は畳みかけた。
 「それだけでは、拘束力をもった満足すべき保証にはならない、と向うが言ってきたらどうしますか」。キッシンジャーとの最初の極秘会談で強く示唆されたものだ。「日米両首脳間の秘密了解事項」を米側は求めてくるだろうと見通していた若泉は最後に付け加えた。「多分に、そう言ってくる可能性があります」
 が、これに対する佐藤の答えを、その時の若泉には「突拍子もないものに感じられた」──。
 「君、最後には天皇陛下だよ。陛下がおられる限り、大丈夫だよ」[註8 太字=引用者]

 思うに、佐藤は、超大国アメリカが執拗しつように求めてきた「核の有事再持ち込みの何らかの保証(密約)」に結局応じざる得なくなるのではないかとの予感の基に、「えい、ままよ」とばかりに、この一言を発したのではないか。最高権力者の政治責任からのある種の逃げ道を意識し始めたとも受け止められる一言だった。近代日本の歴史を振り返ると、黒船来航─明治維新、第二次世界大戦での敗北─戦後復興……時代の危機に遭遇した日本の政治に登場するのは、決まって「玉(天皇)」である。この時、佐藤の脳裏にも、そうした文脈の中で「天皇」が去来していたのではないか。

◇“不忠の臣・栄作”
 佐藤のこの返事は、若泉によほど強烈な印象を残したのだろう。若泉の晩年にまで記憶として残ったのではないか。このやりとりの四半世紀後に公刊した『他策』に、次のように書き記している。

若泉敬が自裁する前に書き上げた『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋刊)=中澤雄大撮影

 「いま[註9]になって思うと、この総理の言葉は、質問の内容をやや誤解したものではあるが、私には佐藤氏が言わんとしたことは分かるような気がする。それは、つまり、かりに自民党政権が崩壊したとしても、天皇がおられるかぎり日本という国は確固として存続する。そして、そうであるかぎり、アメリカとの友好関係は維持されるであろう。だから、こういう日本を信頼してもらいたい、ということであったろう。だが、同時に、この佐藤総理の返事は、国家国民の命運に関する決断を下さねばならない一国の最高為政者の、責任の重さからくる苦衷の表われといえるかもしれない。絶大な権力をもちながらも、その権力の重圧とそれゆえの孤独とが、総理自身を超えた存在としての“精神的な拠所よりどころ”にすがらざるをえなかったのではあるまいか」

 若泉は佐藤に一定の理解を示したのだが、「さらに突きつめて考えてみると」と前置きしたうえで、佐藤の返事を「情緒的回答」と断言した。そして国際権力政治の場での「政治的かつ法的保証」にはならず、通用しない考え方だった──と結論付け、リアリストであるべき最高権力者・佐藤への不信をあらわにしている。
 「あえて酷な言い方をすれば、岸内閣のようなこと[註10」はせず、あくまで“相互信頼”でいきたいという強い願望に加えて、官僚出身政治家としての本能的な保身術から首相として不可避の最終決断と責任を思わず避けたのか、あるいは、皮肉でなしに、元鉄道官僚らしく“安全第一”の配慮が優先し、秘密取り決めのようなものを残すことに伴うリスクを最小限に抑えようとしたのだろうか。(略)いやしくも一国の宰相たる地位にあってその決断を下す際に、かりにも天皇の権威に“逃避した”とすれば、それこそ佐藤氏の日頃の信念に反し、“不忠の臣・栄作”ということになりかねないであろう」

◇欠落した佐藤・若泉「密談」記述
 結局、この日は、「核はどうするのか、肝心な点で総理と私との間で、前述の問答以上には話は進まなかった」。佐藤の口からは、若泉が設定した「この特別のルートは重要だから、もう一、二回、君にはぜひ頼みたい」という言葉はあったものの、具体的な要望は何も出なかった。そして、最後に佐藤が言ったのは、外交ルートでは「詰めても詰まらん問題が在るかもしれんから」と、意味深長な一言だった。当の若泉は「内心いたって物足りなく感じ、不満と不安のうちにこの日の報告を終えた」

 こう見ると、「9・16密談」は、若泉の秘密ルートから、8月に機能し始めた政府間の公式な「静かな外交」ルート(後述)へと、佐藤の力点の置き方が大きく変わっていく潮目と言えた。定例閣議が始まる午前10時まで、若泉との会見に関する記述は、「7月25日」の時と同様、『佐藤日記』から完全に欠落している。
 この日は、いつも通り「開かずの門」で若泉を待ち受け、首相公邸の応接室まで導いたはずの首席秘書官・楠田の日記にも、「7月25日」と違って一切言及がない。9月16日付の楠田の「日記」は、午前中は空白、昼から書き始められている。

佐藤栄作首相の死後に刊行された重要文献『佐藤榮作日記』と『楠田實日記』。佐藤の日記は市販の自由日記に記され、計40冊に上った=中澤雄大撮影

 佐藤と若泉の「密談」は、密使・若泉のキッシンジャーとの初の接触後、欠落している「7月25日」と 「9月16日」以外の8月13日、同22日、9月2日は「若泉来訪」の事実が、『佐藤日記』に記されている。以上、計2日の欠落理由をどう見るか。
 確たる立証はできないが、若泉がキッシンジャーに会うために渡米した7月から9月の間に起きた首相・佐藤及び日本外交を取り巻く<情況・大情況>の推移を丹念に追ってみると、沖縄返還を巡る日米交渉の分水嶺がなぜこの間にあったのか、その手掛かりが見えてくるように思われる。

◇佐藤外交の分岐点「9・16」
 若泉の来訪が欠落している『佐藤日記』の9月16日は、どのように書かれているか。
 「九月十六日 火 定例閣議。福田[赳夫]蔵相の渡米をきめ、留守中は[経済企画庁長官の]菅野かんの和太郎わたろう]君にやって貰う事とする。渡米中の愛知君と米国務長官との二回目の折衝につき、[外務事務次官の]牛場[信彦]君を招致して経過を聴取する。すべて順調か。一日内閣の日程を決める。次に参内さんだいして侍従長の人選の内奏をし、御裁可を得て入江[相政すけまさ]侍従長をきめる。同時に日米交渉、大学問題、物価等久しぶりに内奏して退出。理髪後、月一回[会]に出席して七時半すぎ帰宅。」(太字—引用者)

 この「すべて順調か」には、表舞台で行われた日米交渉第3ラウンド、それを裏で支えた東京の「東郷文彦(北米局長)─ディック・スナイダー(駐日公使)」の「静かな外交」ルートが、ワシントンの「下田武三(駐米大使)―アレクシス・ジョンソン(国務次官)」ルートと併せて、対米外交全体がかみ合って機能し始めているとの評価から出た言葉だろう。

 その後に明記された「一日内閣」とは、9月25日に島根県松江市で開かれる「国政に関する公聴会」を指す。佐藤はこの中で「沖縄返還が日本民族の将来にとってどのような意味を持つかという点を中心に」した演説で、「一本立ちした日本」[註11]の新たな国造りへの決意を示した。佐藤が重視したこの演説は楠田が、事務次官にまで後年上り詰める外務省の切れ者・村田良平(外務省国際資料部)らにも相談し練りに練って書き上げたものだ。その草稿が佐藤に手渡されたのは9月15日夜だが、若泉と会った翌16日の『楠田日記』には「昼、急に総理が演説の推敲をしようと言い出した」とある。

佐藤栄作首相(『佐藤榮作日記 第三巻』より)

 それから9日後、首相・佐藤は日本国民に向けて発信した。
 「いったん(沖縄-引用者)返還が実現すれば、国民の生活態度、ものの考え方、ひいては世界における日本の位置づけにまで影響を及ぼすことになる。戦後四分の一世紀を経た今日、わが国は内政、外交とも自らをふり返ってみる時期に差しかかっている。すなわち国際社会において独自の役割りママを果たすべき新しい共同体としての日本国家を再発見するとともに、国家と個人の関係においても、新しい角度から見直してみる必要があると思う」

 ニクソン政権下で米国の新アジア政策が大きく展開しようとする中で、国民の独立心、自分の国は自分で守る気概を持つよう国民に呼びかける力を込めた演説であった。松江での「一日内閣」の演説を聞いた楠田は、首相・佐藤が「心技体ともに充実し、政治家としての頂点に一歩一歩近づきつつあった」[註12]と感じた。
 一連の流れをトレースしてみると、「9月16日」は、昨年11月の内閣改造後、沖縄返還交渉に取り組んできた佐藤外交の分岐点を象徴していた。

◇「静かな外交」ルート始動
 7月から9月までの間、首相・佐藤と日本外交に絡んで起きた<情況・大情況>がどのように推移したのか。以下、上述の佐藤演説に到達する意味合いの手掛かりを求めて具体的に辿たどってみる。
 ■7月 ベトナム反戦運動が世界中で高まる。米国内では、デモや抗議運動が日常化、政府批判が強まる。
 ■7月26日 ニクソン大統領、米国の対アジア政策で「グアム・ドクトリン」発表(アジアでの過度な介入抑制、ベトナム化政策、同盟国に役割拡大を求める)
 ■7月29日~31日 日米交渉第2ラウンド(東京)──第7回日米貿易経済合同委員会、大平正芳通産相・スタンズ商務長官会談(29日)、愛知外相・ロジャーズ国務長官会談(30日)、佐藤首相・ロジャーズ会談(31日)

楠田實編著『佐藤政権・二七九七日<上><下>』=鈴木美勝撮影

 第2ラウンド交渉で特に注目されたのは、沖縄を巡る問題で特に進展が見られなかったものの、日米貿易経済合同委員会では、初日から最大の焦点として繊維問題が取り上げられ、日本の自主規制を求める米側と異論を唱える日本側で激論が交わされた。会議はさながら「日米繊維会議の観」を呈し、「縄と糸の取引説」がメディアで公然と書かれるようになった
 ■8月3日 大学紛争の収拾・今後の未然防止に向けた大学運営臨時措置法案が衆院での強行採決(7月29日)を受けて、参院では異例の審議省略による抜き打ち的に可決・成立(60年安保闘争の教訓を踏まえて、安保条約任期満了に伴う70年の自動延長に備えた措置)
 ■8月 ベトナム和平に向けて米国・北ベトナム・南ベトナム政府・南ベトナム民族解放戦線の拡大4者による公式会談(パリ)と並行して、米代表キッシンジャーと北ベトナム代表レ・ドク・トによる秘密交渉が始まる。沖縄では、米軍による環境汚染や本土との基地格差が問題視されるなど抗議デモが活発化
 ■9月 日米交渉第3ラウンド(ワシントン)──愛知外相・ロジャーズ国務長官会談(13日、15日)、愛知外相・スタンズ商務長官会談(13日)、日米繊維専門家会議(16日~19日)

 ベトナム戦争批判が世界的に高まる中、ベトナム化を進めようとするニクソン政権の対アジア政策の転換、パリ和平交渉の加速化、そして、ニクソンが72年大統領選を念頭に重視する繊維問題での対日圧力の強まり等々、日本を取り巻く情況は大きく変化した。こうした状況下で、米側の新たな交渉役として任命されたのが、知日派で典型的な能吏として知られるディック・スナイダー(前国家安全保障会議・極東担当補佐官)だった。

 スナイダーは7月末、駐日公使(大使特別補佐官)として着任、東京に立ち上げた軍人・法律専門家を含むタスク・フォースを率いて、沖縄返還交渉の進展に向けて動き出した。日本側のパートナーは前述した通り、外務省アメリカ局長の東郷文彦。8月初め、手術のため妻が入院中の慈恵医大病院の病室で、東郷は11月の日米首脳会談に向けて共同声明案を書き下し、それを基に、集中的にスナイダーとの間で話し合いを進めることになった。日米交渉は、沖縄返還に対する日本側の政治的要請と極東の安全保障に対する米側の軍事的要請をいかに調整するかがカギだった。残された最大の問題は、事前協議と米軍の作戦行動と核兵器の扱いについて、どのような表現で共同声明案に書き込むかにあった。

 8月下旬、有能で精力的な知日派外交官の登場に伴う「静かな外交」の本格スタート。新たな陣容による外交ルートの水面下の動きが俄然、活発化した。こうした中で、自らをクールに見つめ「静かな外交の部外者」(『他策』)と自身で命名した若泉の孤軍奮闘する姿が浮かび上がってくる。
 単騎でホワイトハウスへ乗り込む若泉が当時抱いた感懐は次のようなものだった。

ジョンソン米大統領を表敬する若泉敬。左はロストウ特別補佐官=鯉渕信一氏所蔵

 「核の扱いについて、アメリカ側が一片の示唆すら与えていないとはどういうことか。私は、先[6月=引用者]の『ニューヨークタイムズ』紙の報道の信憑しんぴょう性を考えてみたり、この年初めのモートン・ハルペリン氏の見解を反芻はんすうしたりしたが、その後の米政府内の事態の進展については知り得ようはずがなかった」[註13]。この間、繊維問題に関して、ニクソン政権は7月の時点で既に日本への対応方針が決まっていた[註14]のだが、若泉は、キッシンジャーを含めた米側の政策ポジションが劇的に変わりつつあることに気づいていなかった。

 米側の陣容も大きく変わった。キッシンジャーにジョンソン大統領時代のことを引き継いだ特別補佐官ウォルト・ロストウは6月にホワイトハウスを去り、国家安全保障メンバーの極東担当官であったスナイダーが国務省に戻り[註15]、東京へ送られてきた。残るもう一人、若泉が最も頼りにしていたハルペリン(大統領特別補佐官)も秋にはホワイトハウスを去ることが決まっていた。こうして、ホワイトハウス内の真の動きを知るための情報網の重要拠点を、若泉は失っていった。それは同時に、ニクソン政権の「核抜き」「繊維」問題を含む対日外交安保政策が、大統領という「玉」を握るキッシンジャーの意向抜きには決まらない一強時代の到来を意味していた。

【註記】
[1][2]若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』
[3]「首相を困らすようなことはしない」と書かれた佐藤宛のニクソン書簡
[4][5][6]前掲書『他策』
[7]この時、難航していたのは、ベトナム戦争が沖縄返還予定の1972年までに終結していなかった場合、米軍の基地使用がどうなるのかという問題だった。
[8]前掲書『他策』
[9]若泉が『他策』を書き始めたのは、齢50で故郷福井県の鯖江に引っ込んだ1980年以降だと言われる。
[10]岸内閣の対米秘密協定
[11][12] 楠田實編著『佐藤政権・二七九七日<下>』
[13]若泉『他策』
[14]信夫しのぶ隆司『若泉敬と日米密約──沖縄返還と繊維交渉をめぐる密使外交』
[15]ハルペリンが若泉に語ったところによると、スナイダーはハルペリンの場合同様「(キッシンジャーの)部下に対する徹底した秘密主義と、あまりの人遣いの荒さに嫌気がさして辞めたらしい」ということだったが、スナイダー本人は「ヘンリー(キッシンジャー)は自分をなかなか手放したがらなかった」と若泉に言った。どちらが、真実か定かではないが、キッシンジャーが「沖縄問題は日本の事情に詳しいスナイダー君にまかせてある」(民社党訪米議員団長・曽禰益そねえき)と語ったように、ジャパンハンドとしてのスナイダーの有能さに目をつけ、その仕事ぶりを活用していたことは間違いない。

【略歴】
鈴木 美勝(すずき・よしかつ)
ジャーナリスト(日本国際フォーラム上席研究員、富士通FSC客員研究員、時事総合研究所客員研究員)、 早稲田大学政経学部卒。時事通信社で政治部記者、ワシントン特派員、政治部次長、 ニューヨーク総局長を歴任。専門誌『外交』編集長兼解説委員、立教大学兼任講師、外務省研修所研究指導教官、国際協力銀行(JBIC)経営諮問・評価員 などを経て現職。著書に『日本の戦略外交』『北方領土交渉史』(いずれも筑摩書房)、『いまだに続く「敗戦国外交」──「衆愚」の時代の新外政論』(草思社)、『小沢一郎はなぜTVで殴られたか──「視える政治」と「視えない政治」』(文藝春秋)、『政治コミュニケーション概論』(共著、ミネルヴァ書房)。

ピックアップ記事

関連記事一覧