外交裏舞台の人びと
鈴木 美勝(ジャーナリスト)
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「学生土曜会」以来の友人で警察官僚の佐々淳行(右)とくつろぎながら会食する若泉敬(伊藤隆著『佐々淳行・「テロ」と戦った男』ビジネス社刊より)
第16回 1969沖縄返還問題日米交渉
──<表>と<裏>の構図⑧
■沖縄返還の桎梏(下)──
内政にからめ取られたキッシンジャー外交
◇「縄」に絡む「糸」
沖縄返還をめぐる日米政府当局者間の公式交渉は、1969年6月に始まった。キッシンジャー大統領補佐官は、当時を想起して自身の『秘録』に次のように書き記している。「その頃(引用者註=6月)までに日米間には、もう一つの問題が持ち上がっていた。この問題は、もともと沖縄とは関係がなかったが、やがて密接に関連していく運命にあった。繊維問題である。沖縄交渉はすぐれた政策の見本とも言うべきものになったのに対して、繊維問題は安っぽいコメディと挫折、あわや大失態寸前というていたらくとなった」[註1]
表舞台での交渉を始めた日米政府当局者は、<縄(沖縄)>と<糸(繊維)>は別問題と「政経分離」原則の建て前を貫いていた。「両者を関係づけて考えることはしないし、できない」(フィン国務省日本部長)。日本側も同様だった。「沖縄返還問題と繊維問題をからめて議論することはできないし、取り引き材料にはもちろんならない」(愛知揆一外相)[註2]。
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那覇空港で記者会見する佐藤栄作首相。田中角栄・自民党幹事長らも陪席した(1965年8月21日、沖縄県公文書館所蔵)
しかし、「その頃まで」には既に「沖縄-繊維」取引説が日本メディアや日米関係者の間で、しきりに囁かれていた。というのも、首相・佐藤栄作にとって、沖縄返還は国民に事実上公約した最重要課題、一方の米大統領ニクソンにとっては、大統領選で公約した繊維輸入規制は再選を危うくしかねない最重要課題。つまり、佐藤─ニクソン双方とも内外の境界なき政治課題を抱えつつ向き合っている構図だが、そこには誰にも動かせない厳然たる現実があった。それは<沖縄>と<繊維>の接点に「政治」が介在しているという点だった。
そのまま<縄>と<糸>の双曲線が交わることなく、相互遊離していくのか、それとも、介在する「政治」を通じて接点を持ち、外交取引(ディール)が成り立つのかに注目が集まったが、ニクソンの周辺を固める側近たちは、ニクソンの公約履行を最優先課題と見なしていた。結局は<縄>と<糸>は「やがて密接に関連していく運命にあった」[註3]。
◇キッシンジャーの豹変
再選を狙うニクソンにとって繊維問題は“アキレス腱”。商務長官スタンズ以外にも、ホワイトハウスに陣取ったロバート・エルスワース(大統領補佐官、後に駐NATO大使)やピーター・フラニガン(同補佐官)らは、日本に対して繊維輸出自主規制を迫るべきだと強硬論を主張し続けていた。
これに対してキッシンジャーは2月、3月の時点では、ニクソンが打ち出した対米輸出国の自主規制論に異論を唱えていた[註4]。「私は政治にはしろうと同然だったためか、全面的な政治的、経済的検討(引用者註=新政権としての全体の政策レビュー)が済んでいないのに、一つの業種だけ(同=繊維)を取り上げて、格別の配慮を示すのは適当ではあるまい、と思っていた」国際派のキッシンジャーは、ニクソンに忠実に付き従う取り巻きと明らかに違い、内政問題への対応では孤立状態にあったため、引き延ばしを図った[註5]。
ところが、程なく大統領から直々に嗜められる羽目になった。ニクソンはキッシンジャーに言った。「自分としては本気で繊維協定を成立させようとしているのだから……大統領補佐官として、この目的実現のため力を貸すべきだ」[註6]。有無を言わせないような強い口調であった。キッシンジャーは一言もなかった。
◇野心を隠した独自の計算
「私は、大統領が繊維問題の解決をあくまで貫く意向であることを、ホワイトハウスの政治担当者たちからたたきこまれていた。私としては、基本的な戦略的重要性を持つ問題を一時的な国内の政治問題とからませて、この種の問題で日本に事実上の脅しをかけることにはまったく気が進まなかった。しかし、一九六九年の時点では、私は、いわば集団的な判断を封じられるほど強力な立場にはいなかった」[註7]
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米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)に指名されたキッシンジャー(右)とニクソン次期米大統領(『キッシンジャー 1923-1968 理想主義者2』より)
その結果、「不幸にして、この交渉に無理やり巻き込まれてしまった」[註8]。キッシンジャーは困った。繊維貿易をめぐる問題に無案内どころか、「無知」であることを自覚していたためだ。が、往々にしてピンチはチャンスになるものだ。キッシンジャーは、スタンズやフラニガンから提出される提案を、大統領の立場から後押しする役目だが、できることは、それらの案を基に交渉するのではなく、渡された案に四の五のコメントもせず、そのまま受けて相手に「伝達する」こと。それだけにしようと割り切った。事前に代案を持ち合わせず、譲歩する気もなく交渉のテーブルに着く。そうすれば、先方が折れてくるほかない。キッシンジャーは、後に述懐している。「このやり方のおかげで、私の立場は不動のものになった」[註9]。かえって求心力が高まった。が、同時に、それは「あとで後悔のタネになった」[註10]
繊維問題をめぐり、自説(自主規制論反対)を──学者としての誇りに由来する本音は別だが──表向き曲げてまで豹変したキッシンジャー。自身の大ボスたる大統領ニクソン直々の指示とは言え、そこには、身中に滾る野心を包み隠した独自の計算があったのではないか。
◇策謀の中で生き抜く
超大国アメリカの最高権力の頂点・ホワイトハウスでは、どの大統領の時代にあっても日々みられた光景だろうが、ニクソン政権ではとりわけ凄まじい策謀が渦巻いていた。
例えば、誰がニクソンと共に大統領専用機エアフォース・ワンに同乗し、誰が大部分のホワイト担当プレスや下っ端の随員と共に、「家畜用」支援機という隠語もあった予備機に回される否か──という小事も、側近争いや政治的牽制の材料に使われた。政権発足当初は、キッシンジャーでさえ、この種の問題の担当者から意地悪く言われた。大統領専用機同乗リストから「きみを落とさなければならないかもしれないぜ」[註11]。
キッシンジャーは常々「大統領と直接接触するただひとりの外交担当官でありたい」と思っていた。そのためには、法に触れぬことなら何でもした。合衆国陸軍情報学校時代からの友人さえ、「あまりユダヤ人が多いのはどうかと思う」と言ってエアフォース・ワンから追い出し、大統領から遠ざけたというエピソードもあるくらいだ。「亡命者キッシンジャーは、有力者の支援を得るためにはどうしたらいいか(の術)を身につけていた。策略を用い、相手を楽しませ、自分を印象づけ、時には相手の目を眩ませるなど、あらゆる方策を用いた。(略)リチャード・ニクソンを相手とした場合に重要だったのは、ごますりだった。陰にまわればニクソンをけなしながら、面前ではその顔色をうかがった」[註12]
◇繊維業界・議会筋の内圧
キッシンジャーは、ニクソン内政の中核的課題である繊維問題を「安っぽいコメディ」と決めつけていた。国際政治学者としての尻尾の名残りがまだあるキッシンジャーは、外交こそ上質のエリートが取り組むのに相応しい分野であり、泥臭い内政の分野は一段低いものと見ていた。

綿花の一大生産地「コットンベルト」
米大統領選挙を「四年毎にまわってくるアメリカの不思議な部族的儀礼」とやや侮蔑的と受け取れる呼び方をし、その一環として「南部の代議員と有権者に、繊維問題でなんらかの措置をとる」[註13]などといった田舎芝居の公約ゲームなどには、巻き込まれたくなかった。
69年に先鋭化した繊維問題の発端は、そもそも前年の大統領選で共和党候補ニクソンが進めた南部戦略にあった。黒人及び少数民族が人種差別撤廃と権利の平等を求めて、50年代以来展開してきた社会運動は、60年代に絶頂期を迎えたのだ。それは米国社会を根幹から揺るがし、マイノリティの国民による既存の社会構造や政治体制への反発を生み出した。が、同時に60年代は、対外的には第二次大戦後の廃墟から立ち直り、新たに経済大国として台頭した日独両国など西側民主諸国家による競争圧力が、米国内の伝統産業に加わった。とりわけ、米国の地域経済を支えてきた南部の繊維産業は社会、政治、経済の変革が求められる中にあって、将来の自身のあるべき姿を模索する必要に迫られるようになった。
◇ニクソン南部戦略の核心
大統領選で、ニクソンは公民権運動をテコに支持を拡大する民主党候補ヒューバート・ハンフリーに対抗、国内産業の保護を名目に、零落する南部白人の不満層に照準を当てて集票増大を目指した。この戦略には、中長期的には共和党の全国的な多数派形成を構築する狙いがあった。このため、反人種撤廃政策に重点を置くばかりでなく、福音派キリスト教徒など文化的な保守層への働きかけに加えて、繊維産業の保護策、繊維労働者の雇用対策にも重きを置いてキャンペーンを推進。

南北戦争勃発までに奴隷化された黒人はアラバマ州人口の45%を占めており、ほとんどの白人は、奴隷制の維持が不可欠であると信じていたという(アラバマ州HPより)
日本からの輸出規制など毛・化合繊の繊維産業の保護救済策を公約に掲げた。ニクソンには伝統的保守層ばかりでなく、中間層にも支持の裾野を広げ、共和党の支持基盤を拡大する狙いもあった。
南部戦略が奏功し大統領選に勝利したニクソンは、第37代大統領に就任すると、日本からの毛・化合繊輸出の自主規制を求めた。その裏には、ニクソンを全面的に支援し、サウスカロライナやノースカロライナ、フロリダの南部三州の勝利に貢献した上院の長老議員ストロム・サーモンドをはじめとする伝統保守勢力との強い結びつきがあり、72年の再選を目指す上でも不可欠の基盤だった。サーモンドは68年、フロリダ州マイアミビーチで開かれた共和党大会で、ニクソンを同党指名の大統領候補にするのに貢献した特別の人物だった。
ニクソンが大統領に就任すると、ウィルバー・ミルズ(下院歳入委員長、アーカンソー州)らと共に選挙公約の実現を強く迫るようになった。しかし戦後、米国は自由貿易体制の旗頭として世界経済を牽引してきただけに、こうした動きに対して、日欧などから批判の嵐が起きたことは前述した[註14]。
◇『秘録』の“光と影”
キッシンジャーは自著『秘録』の中で、ニクソン対外政策における重要なピースとなった対日外交について、「沖縄交渉=すぐれた政策の見本」「繊維問題=安っぽいコメディ」と総括し[註15]、同書「第九章 政権初期のアジアの試練」の中で「米日同盟関係」「沖縄交渉」「繊維をめぐる大失態」の項目を立てて、縷々記述している。

『キッシンジャー秘録❷ 激動のインドシナ』(監修:桃井眞 訳:斎藤彌三郎・小林正文・大朏人一・鈴木康雄、小学館刊)
この記述は、キッシンジャーの外交記録における“光と影”を映すと同時に、沖縄返還問題の裏舞台外交に関する重要な視座を付与してくれる個所と言える。
それによると、大統領補佐官キッシンジャーと、首相・佐藤が送ってきた「使者(emissary」」なる人物が会ったのが、1969年7月18日。以来、二人は両国の官僚機構の頭越しに秘密のチャンネルをつくりあげ、交渉に入る。この「佐藤の使者」については、以後の記述でも一貫して「使者」あるいは「ヨシダ」の呼称で表現されるが、この「使者」「ヨシダ」こそが「若泉敬」であった。[註16]。若泉とキッシンジャーとの秘密接触の経緯やその結果については、その3日後の7月21日の秘密接触も含めて、『秘録』には次のように書かれている〔註17〕。
「佐藤としては、核、繊維両問題について、その基本的な原則問題でニクソンと了解に達したい意向だ、とのことだった。この基本問題が片づきしだい、その細目の処理を双方の官僚に命じようというわけだった。私がニクソンに電話をかけ、佐藤の方針を伝えると、ニクソンはすっかり乗り気になって『それでやってみよう。国務省が面倒をみているわけにはいかない』といった」
「私は大統領に随行して、アポロ11号の着水視察と世界歴訪の旅に出発するのをまえに、数日間にわたって、その使者と問題の検討に当たった。使者と私は、繊維問題解決の大枠について合意に達し、これを外交経路を通じて交渉させることで一致した。核問題の方は、今後の検討にゆだねることになった」
◇繊維交渉めぐる「歴史の後知恵」
以上、キッシンジャーが言いたいのは、7月の密使・若泉との間で行われた初の秘密協議(18日と21日)内容の太字部分だ。①核の問題ばかりでなく繊維問題を切り出したのは若泉の方だった②若泉は、佐藤の意向として核、繊維両方の問題についての基本的な原則問題でニクソンの了解を取り付けたい、と伝えてきた③これに対してキッシンジャーが、ニクソンと連絡を取った上で若泉と改めて協議した結果、繊維問題の解決の大枠について合意に達した④核問題については引き続き検討することになった──というものだ。
だが、若泉は最初の交渉となった7月の秘密協議において、上記のような事実はなかった、と完全否定している。いわく「私がキッシンジャー補佐官から初めて『繊維問題』という言葉を聞いたのは、彼が述べている七月十八日ではなく、九月二十六日の彼との会談においてであった」[註18]。

アラバマ州の綿花農場
キッシンジャーの記述について若泉は、沖縄・繊維両問題の交渉が難航を極めた長丁場だったため、「思い違いか」「穿った見方をすれば、歴史の後知恵による記述だと批判されても仕方ないのではあるまいか」[註19]と、遠慮がちに反論している。が、この点について言えば、繊維問題に関するキッシンジャーの認識やそれへの対応を詳細に書いた『秘録』の「繊維問題が先鋭化」部分を含めて全体を読み込んでみると、若泉の指摘の方が、筋が通っているのは確か。つまり、9月になるまでに再度接触の機会があった[註20]のに、キッシンジャーからは「『繊維』という言葉は一語もなく、ましてその重要性についてふれたような問題提起を彼が一切しなかったという事実は、どう考えてみても不自然かつ不可解である」[註21]──と。
繊維問題への対応に関しては、前述したようにキッシンジャーは「この交渉に無理やり巻き込まれて」しまい「あとで後悔のタネになった」と率直に告白しているが、繊維交渉に関与してからの『秘録』の件は、若泉が言ったように「歴史の後知恵」のように思える。
◇キッシンジャー流「奇妙なリンケージ」
以上、繊維問題をめぐるキッシンジャーの『秘録』や若泉の『他策』から浮かび上がってくる事実はどう解すればいいのだろうか。
まず、キッシンジャーは当初、大統領ニクソンの「日本の輸出自主規制」論に異を唱えていたが、策謀渦巻くホワイトハウスの権力装置の中で大統領補佐官を務めるうちに、表向き自説を翻したのはなぜか。自説を変えた点について、学者キッシンジャーが真に納得していたかは定かではない。が、豹変の引き金となったのはまず、ニクソン本人から直々に指示されたことが決定的だった。加えて言えば、キッシンジャーは「大統領と直接接触するただひとりの外交担当官でありたい」[註23]と、常々思っていた点に関係して来るであろう。これらの点もあってキッシンジャーは、ニクソンが再選に向けて最重視する繊維問題にも取り組むことになったのではないか。
また、キッシンジャーが若泉に対して、いつの時点で「繊維カード」を切る決断をしたかは定かではない。キッシンジャーが「繊維」を口にしたのは、若泉によれば、佐藤訪米までわずか2カ月足らず前の9月下旬だが、その意味することも含めて、沖縄返還交渉の枠組みと構造分析と併せて次回以降に考えてみたい。
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沖縄ゼネストに向けた基地前の集会ゼネストは、屋良朝苗主席の要請で中止になった(1969年2月4日、沖縄県公文書館所蔵)
米側の戦略は、佐藤が求める「核抜き」カードを徹底的に使って、日本側から可能な限りの譲歩を引き出すことにしていたことは、今では明らかになっている。そこで、沖縄返還問題をテコに繊維問題を進展させるという発想の基に、事実上、キッシンジャーが対ソ連外交で多用したリンケージ(連結)理論[註23]を適用したもので、対日関係では、奇襲作戦のように「繊維カード」が唐突に切られた。これには、この問題に素人同然の若泉が驚愕したことは想像に難くない。
あくまで「核抜き本土並み」が欲しい日本側に対して、米側は「沖縄」をテコに繊維問題で押し込み、佐藤に実質的な輸出自主規制での決着を密かに約束させる。ここまではキッシンジャーの狙い通りだったのだが、佐藤政権は繊維問題での約束を履行できず、「安っぽいコメディ」は69年11月の日米首脳会談以後もさらに2年間続くことになる。
こうした「奇妙なリンケージ」は、キッシンジャーの知恵だったのだろうが、繊維交渉は挫折する。キッシンジャーが『秘録』に書き残した「使者」との初の秘密協議に関する個所は実際、「安っぽいコメディ」の責任を日本側に擦り付ける意図があったのではないか。
「大失態」に終わった繊維交渉については、キッシンジャーの「総括」[註24]にこんな件がある。「佐藤の明確な約束は、彼が指定した使者を通じて、何回も繰り返し確認されていた。そもそもの誤りは、一九六八年のニクソンの選挙公約にあった、と言えるかもしれない。それは、わが国の外交政策目標にとってあまりにも高くついた」──と。あくまでも自身に非はないとの主張を貫いているのである。(つづく)
<註記>
[註1][註3][註5][註6][註7][註8][註9][註10][註13][註15][註19][註24]『キッシンジャー秘録❷激動のインドシナ』
[註2]『世界週報』1969年6月24日号
[註4]第15回「◇繊維自主規制に反対だったキッシンジャー」参照
[註11][註12][註22]ウォルター・アイザックソン『キッシンジャー 世界をデザインした男<上>』
[註14]本連載第15回参照
[註16]現在では、若泉の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』が公刊された1994年5月をもって、若泉であることの確証 が得られている。
[註17]本連載第13回、第14回参照
[註18]若泉が『他策』に記述している7月の秘密協議は、本連載第13回と14回参照
[註19]二人はこの7月以外に、8月末にサンクレメンテで秘密交渉をしている。
[註20]『他策』
[註23]キッシンジャーは「世界の各地で生じる出来事は、互いに関連し合っている」として、「現実を継ぎ目のない一枚の織物のようなものとして把握」し、諸問題の解決にあたろうとする外交の思考を「リンケージ(連結)理論」(『キッシンジャー秘録❶ワシントンの苦悩』)と呼んだ。リンケージは二つの形態に分類される。一つは「外交官が交渉に当たって、二つの別個の目的を意識的に結びつけ、一方を他方のテコとして利用する形」、もう一つは「一大国のもろもろの行動はどうしても互いに関連性を持たざるをえず、直接関係のある問題や地域を越えて、広く影響を及ぼす」として、相互依存の世界における国家間の諸行動によって生じる形態である。キッシンジャーは、後者を対ソ連外交に適用した。

鈴木 美勝(すずき・よしかつ)
ジャーナリスト(日本国際フォーラム上席研究員、富士通FSC客員研究員、時事総合研究所客員研究員)、 早稲田大学政経学部卒。時事通信社で政治部記者、ワシントン特派員、政治部次長、 ニューヨーク総局長を歴任。専門誌『外交』編集長兼解説委員、立教大学兼任講師、外務省研修所研究指導教官、国際協力銀行(JBIC)経営諮問・評価員 などを経て現職。著書に『日本の戦略外交』『北方領土交渉史』(いずれも筑摩書房)、『いまだに続く「敗戦国外交」──「衆愚」の時代の新外政論』(草思社)、『小沢一郎はなぜTVで殴られたか──「視える政治」と「視えない政治」』(文藝春秋)、『政治コミュニケーション概論』(共著、ミネルヴァ書房)。