帝国劇場と俳優座劇場─閉館のゆくえ(下)
井上 理惠(桐朋学園芸術短大名誉教授)
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惜しまれながら閉館となった俳優座劇場の正面玄関と舞台。写真㊦は俳優座劇場舞台美術部の看板(俳優座劇場HPより)
「夢の共有」である演劇
未来へ開かれた劇場を目指せ──

八王子・雲龍寺に建つマッカーサー元帥銅像
1945年8月15日正午、天皇の終戦宣言のラジオ放送があった。日本の国民全員がリアルタイムで聴いたわけではない。「芙蓉隊」の一人、桑原澄江は「八月二十五日。群馬・栃木を巡演中、無条件降伏を聞く。夜、富岡旅館にて放送を聞き……」と10日遅れの情報を告げている。彼らの裡では戦争は続いていたのだ。
そんな国民の現実とは無関係に戦後は始まる。8月28日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着し各地に進駐し始め、その2日後には連合国軍最高司令官(SCAP)マッカーサーが厚木に到着、同総司令部(GHQ)を横浜に設置。9月15日、東京・日比谷の第一生命ビルをGHQの本部とし、使用を開始する。
◇敗戦後の劇場と劇団俳優座
東京の劇場は、45年3月10日未明の米軍による無差別夜間爆撃(東京大空襲)で破損または全焼した。新劇の拠点であった築地小劇場は燃えた。松竹所有の歌舞伎座・新橋演舞場・明治座・浅草松竹座は修復可能な被害で済み、東劇は使用可能。東宝所有の帝劇・東宝劇場・有楽座・日劇は焼けなかった。皇居に近かったからだと推測される。戦後、占領軍は皇居近辺にある劇場や建物を接収する。米軍は戦後を考えて東京に爆弾を落としていたのである。新劇人は自由に芝居ができる時が来て疎開先から帰京しても劇場がない。
さらに占領軍の文化政策「映画演劇の制作方針に関する指令」が9月22日に発表され、新しい時代に出す演目を模索しなければならなかった。

GHQ本部が置かれた第一生命ビル、並びに帝国劇場の姿も
帝劇はどこよりも早く再開した。戦後演劇界のイニシアチブを取りたかったのだ。現存する全演劇集団を順次舞台に上げ新しい時代に適した現代演劇を探っていく。45年10月に菊五郎一座『銀座復興』(現代劇)、『鏡獅子』(舞踊)で再開し、前進座、吉右衛門一座、藤原歌劇団、舞踊会、新生新派などが次々と上演し、新劇の合同公演『真夏の夜の夢』(坪内逍遥訳・土方与志演出)が帝劇に登場したのは、46年6月であった。同じ年の12月、三越デパートの劇場が演劇専用劇場として開場する(定員665名)。この劇場が戦後新劇を救うのである。

久保栄
東宝は、新劇を重視して久保栄・滝沢修・薄田研二と東京芸術劇場を創設し、帝劇や有楽座を新劇公演に提供していた。他方、争議に頭を悩ませていた東宝は、47年の「2・1ゼネスト中止命令」を出したGHQの占領政策の方向転換に歩調を合わせるかのように、3月4日に諸経費の高騰に対処するため<四月から当分帝劇と有楽座の二劇場では従前どおりの新劇公演をやらないことにしました(略)興行として成り立つ新劇でしたら喜んでご相談に応じる(略)その代わり新宿文化劇場を新劇に提供する(略)いわゆる新劇の運動は新宿でお願いしたい>(東宝芸能部長・森岩雄)と発表した。
傘下に置いた東京芸術劇場も、『林檎園日記』(久保栄作・演出)上演後に東宝争議がらみで47年3月末に解体する。東宝の戦後商業主義演劇への転換の始まりと言える。

久保栄ゆかりの札幌平岸林檎園記念碑を訪ねた筆者=2018年6月、中澤雄大撮影
劇団俳優座は46年3月に第一回公演『検察官』(ゴーゴリー作、青山杉作・千田是也演出)を東劇で上演、戦後の出発をしていた。同じ年の9月に劇団組織とは別に千田是也は長兄の伊藤道夫(舞踊家)と、俳優養成所―舞台芸術アカデミーを始める。これが、後に付属養成所を創る契機になったのは言うまでもない。しかも劇団俳優座は、バラック建ての稽古場の土地が47年3月の麻布区三河台町周辺の区画整理で「六本木の現在地の替え地」を得ていて、11月には稽古場を建設し、稽古場に隣接する土地150坪を購入することができた。まことに幸運に恵まれていたのである。
新憲法が施行された47年5月には、第4回公演『中橋公館』(真船豊作・千田是也演出・伊藤熹朔装置)を三越劇場で持つ。これは戦後新劇の「三越時代」の始まりになる。

「近頃の新劇団公演」状況を伝える『毎日新聞』1953年3月16日付夕刊
帝劇や有楽座から締め出された新劇は、舞台は狭かったがストレートプレイに適した客席数を持つ三越劇場を常打ち小屋にすることが可能になったのである。その上、三越の新劇公演は「劇場側の買い取り制」(『毎日新聞』53年3月16日付夕刊)だった。新劇は戦前の国家検閲とは異なるGHQの検閲やアメリカの演劇政策(48年以降、アメリカ演劇の上演要求)に振り回されるが、劇場難からしばし解放される。外国映画の参入で帝劇も他の劇場も映画館に転換していたから三越劇場は新劇にとって重要な存在となり、同時に築地小劇場のような新劇の拠点劇場を持ちたいという新劇人共通の願いを忘れさせたのであった。
◇俳優座劇場の登場
劇団俳優座は49年に俳優養成所を始める。50年春には創立5周年記念事業として劇団俳優座演劇研究所設立基金募集をした。その趣意書に「俳優養成施設を含む研究所の建設(略)収容三~四百人の付属小劇場建設計画」を盛り込むが、基金は予定通り集まらず小劇場建設は計画で終わる。しかし11月に俳優座演劇研究所を建設することができたのである。

「三越劇場」は1927年、三越ホールの名で、日本橋三越本店6階に誕生。ロココ調の装飾が特徴(本店HPより)
50年5月共産党はマッカーサーにより非合法化を示唆され、7月にはGHQが「レッドパージ」(共産党員と同調者の追放)を勧告、8月に警察予備隊令が公布され、51年4月にマッカーサーは離日する。9月8日に対日講和条約の調印式がサンフランシスコで行われ、続いて日米安全保障条約の調印式があった。52年4月28日に発効し占領が解除され、5月1日には日本共産党中央機関紙『アカハタ』が復刊する。が、日本に米軍の基地は残り、沖縄は米軍が占領、危うい傘の下の独立であった。
時を同じくして新劇の常打ち小屋であった三越劇場が52年8月、劇場の夜間閉鎖を発表したのである。三越デパートが戦前から左翼と見なされた新劇に劇場を使用させたのは、初期の占領軍の民主化政策・新劇重視の文化政策によると推測されるし、突然の夜間閉鎖は占領解除と関わりがあると見ていいだろう。
閉鎖理由はさまざまに喧伝され、表向きはデパート経営の枠内に夜間開場が収まらないためと発表された。現在新劇公演は観客の高齢化で昼公演が多いが、当時は夜公演が主で、デパートは夕方に閉まっていた。新劇は「完全な自主公演」をしなければならない状況に置かれた。慌てた新劇界は、劇団民藝が青山に、文学座が市ヶ谷に小劇場を建てる計画をたてるが頓挫し、最後まで劇場建設に固執したのは麻布三河台町(67年・六本木に町名変更)に研究所や稽古場を持つ劇団俳優座であった。
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1954~78年まで存在感を示した旧俳優座劇場(『俳優座史』より)
俳優座は占領解除後の資本主義社会に対応すべく組織を変えていた。同人制で始まったが、講和条約調印前に同人制をやめて25人の劇団員の共同責任制にし、51年7月に有限会社劇団俳優座として出発、六本木の土地建物は有限会社劇団俳優座が所有することになる。
三越劇場の夜間閉鎖は劇場建設実現へと向かわせた。若手を除く所属俳優たちは舞台を休み、ラジオや映画に出演して建設資金を集めた。千田は「ある一つの芸術的システムの完成を目指して努力し、そのために研究所を持ち、年々数十人の若い演技者を養成している劇団としては(略)自分たちの自由につかえる実験の場を持つことはごく自然だと思うからである。ラインハルトにしろスタニスラフスキーにしろコポーにしろ、外国の新劇運動は、みんな自分たちの専用の劇場に拠ってその仕事をやっている」と実現に向けて語る。
株式会社俳優座劇場を設立させるべく1株五百円で売り出した株を、俳優はじめ演劇関係者・支援者たちが購入し、53年に会社が設立され(港区西久保桜川町=現・虎ノ門1丁目)、54年4月、六本木通りに面して建つ俳優座劇場(401人収容・港区麻布三河台町14=現・六本木4丁目)が登場した。運営は株式会社俳優座劇場(会長・久保田万太郎、社長・伊藤熹朔、取締役・小沢栄〔栄太郎〕・東野英治郎・東山千栄子・倉林誠一郎ら)が担い、開場公演『女の平和』(アリストパネス作・青山杉作演出)で出発する。以後、多くの新劇集団の芝居が舞台に乗って、この劇場は労演と共に戦後新劇全盛時代の一翼を70年代まで担うことになる。築地小劇場を超える快挙であったと言っていい。
76年6月のイプセン作・毛利三彌訳「野鴨」公演を最後に、老朽化のため劇場は閉館、劇団俳優座は新劇場の建設へ向かう。あたかもアンチ新劇で登場した小劇場集団の烈しい攻撃を受けて立つかのような見事な決断であった。80年8月、六本木通りに鉄骨鉄筋コンクリート造陸屋根地下1階地上9階建(劇場・稽古場・劇団事務所その他・店舗・住宅)の俳優座ビルが誕生する。
登記簿によれば、俳優座ビルの主たる土地・建物の所有者は有限会社劇団俳優座で、店舗・住宅は劇団俳優座が売買した。劇場(1~3階)は株式会社俳優座劇場の所有であった。店舗や住宅を賃貸用ではなく分譲したのは建設資金を得るためであったが、結果的にはこれが現在の閉館につながったと、わたくしには思われる。しかし資金のない演劇集団には、これ以外の方法はなかったのだ。
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4月19日に惜しまれながら閉館した俳優座劇場の玄関(俳優座劇場HPより)
登記簿に記された<抵当権設定や解除>、あるいは<売買の経過>を読むと、劇団俳優座は度々銀行から借入金をして劇団を維持し、返済時には所有建物の一部を株式会社俳優座劇場に売却している。非商業演劇である劇団の維持がどんなに大変かを告げるものであった。むしろ同族会社の劇場に売却可能であったことは喜ばしいと言える。それは株式会社俳優座劇場の主たる営業部門が舞台美術部であったからで、それだけ舞台美術の創造力は群を抜いていたのである。
演劇芸術に国家の文化予算が投入されれば運営に力を注がずに済み、演劇人は舞台づくりに励めるものを……と、日本の文化後進国状態を嘆かざるを得ない。
株式会社俳優座劇場は地域開発の可能性の不透明性や区分所有者の多さ、老朽化した劇場の維持の不可能性……等々を勘案して、劇場の売却を決めたのだと推測される。現在の劇場所有者は東京土地建物株式会社である[註1]。俳優座劇場の閉館は、劇場の運営・維持の困難さをわたくしたちはまたもや知ることになった。
◇未来の素描
商業演劇の雄・帝劇はおそらくまたミュージカル路線を取るのだろう。が、海外ミュージカルの上演はほどほどにして、日本の創作ミュージカルを上演してほしい。現在、創作を常時舞台に上げているのは、宝塚歌劇団と音楽座ミュージカルだけだ。劇作家と音楽家と観客を育てるためにも日本のミュージカルを舞台に上げなければ、帝劇は海外ミュージカルの動く博物館(複製展示)と化すだろう。

『寺山修司幻想劇集』(平凡社)
非商業演劇は国家の文化政策と直結している。現政権下の現代演劇の現実は世界でも稀に見る悪条件下にある。寺山修司は演劇を「私自身の社会参加の手段として選択」したと言い、「政治を通さない日常の現実原則の革命」であり「夢の共有、集団妄想のたくらみ」と言った。つまり観客は、演劇に影響され、知らず知らずの裡に変容される。劇場は、そうした演劇との出合いの場である。そこで「自由・平等・平和」という<哲学的小宇宙>に出合うことが日本の未来像に繋がる。劇場を、演劇の牢獄あるいは動く博物館にするか、未来に開かれた場にするかは、今を生きるわたくしたち自身の選択にかかっているのである。
<註釈>
註1=俳優座劇場の閉館後、吉本興業の常設劇場「YOSHIMOTO ROPPONGI THEATER」が進出することに対して、SNSを中心に賛否の議論が出ているが、株式会社俳優座劇場は劇場を東京土地建物株式会社に売却済みである。かつて帝劇が松竹との間で10年間の賃貸契約を締結したように、期間限定の賃貸契約を結んでいるのではないかと、筆者はみている。
<参考文献>
保阪正康『近代日本の地下水脈Ⅰ─哲学なき軍事国家の悲劇』文春新書2024
倉林誠一郎『新劇年代記<戦後編>』 白水社 1966
フエルデイナンド・グレゴリー『俳優術』小山書店1943
千田是也『千田是也演劇論集 第1巻』未来社1980
千田『もう一つの新劇史』筑摩書房1975
井上理惠『近代演劇の扉をあける─ドラマトゥルギーの社会学』社会評論社1999
井上「回想の新劇―変貌する概念<新劇>」『築地小劇場100年 新劇の二〇世紀』早稲田大学演劇博物館2024
佐貫百合人『蟻屋物語―戦後新劇の青春』早川書房1979
寺山修司『寺山修司演劇論集』国文社1983

井上 理惠(いのうえ・よしえ)
桐朋学園芸術短大名誉教授、日本近代演劇史研究会代表
東京都出身。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。専門は演劇学・演劇史・戯曲論。吉備国際大学教授、SOAS University of London〔School of Oriental and African Studies〕Visiting Fellow、日本演劇学会副会長(現・理事)などを歴任。著書に『近代演劇の扉をあける─ドラマトゥルギーの社会学』(社会評論社、以下同)で河竹賞受賞、他に『久保栄の世界』、『ドラマ解読―映画・テレビ・演劇批評』、『菊田一夫の仕事 浅草・日比谷・宝塚』、『川上音二郎と貞奴』全3巻、『清水邦夫の華麗なる劇世界』、『村山知義の演劇史』など。主な編著に『木下順二の世界─敗戦日本と向きあって』、『島村抱月の世界─ヨーロッパ・文芸協会・芸術座』、『福田善之の世界』他。共著に『宝塚の21世紀─演出家とスターが描く舞台』など多数。人気ブログ「井上理惠の演劇時評」も随時更新中。