外交裏舞台の人びと
鈴木美勝(ジャーナリスト)
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那覇空港でワトソン高等弁務官の出迎えを受ける佐藤栄作首相(1965年 8月19日、沖縄県公文書館所蔵)
第17回 1969沖縄返還問題日米交渉
──<表>と<裏>の構図⑧
■「糸」で狂い始めた佐藤「鵜匠外交」の展開
経済学の巨人、ジョン・ガルブレイスは不確実性極まる時代にあって、ドイツの宰相ビスマルクに反論するように「政治は可能性の芸術ではない。悲惨なことと不幸なこと、どちらを選ぶかの苦渋の選択である」と喝破したが、1964(昭和39)年11月9日、総理大臣に就任した佐藤栄作はビスマルクに回帰する如く「可能性」を創造する政治を追求した。そして翌年夏には、戦後の総理大臣として初めて沖縄に飛んだ。
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって『戦後』は終わっていないことをよく承知しております。これは、また、日本国民すべての気持ちでもあります」
沖縄の祖国復帰実現に向けて「可能性追求・創造性の政治」にかけるとの覚悟を日本国民に約束した瞬間だったが、この沖縄返還問題で佐藤は最後に「苦渋の選択」を迫られることになる。不確実性の時代の中で発信されたガルブレイスの冒頭の言葉は、やがて佐藤にとっても底知れず重い意味合いを持ったものになってくるのである。
◇「鵜匠」外交の陣立て
佐藤が最上位に掲げた沖縄の祖国復帰──その実現可能性には「半信半疑」の目が注がれていた。そうした中、当の佐藤は表向き、核の扱いと在沖縄米軍基地の態様について「白紙」の立場を取り続ける。その一方で、ワシントンの動向を注視しつつ、表裏の舞台を縦横に使って対米外交を推進した。沖縄返還問題の分水嶺となる69年、日米は交渉を始めたが、前回・前々回で述べたように「縄(沖縄問題)に糸(繊維問題)が絡む」厄介な事態が表面化。首相・佐藤が政治生命を賭けて取り組む沖縄返還戦略に狂いが生じ始める。
本筋の問題(核をめぐる交渉)に話を戻す前にここでは、糸が縄に絡んできた際に佐藤が沖縄シフトの体制をいかに構築し、それを使ったかを構造的に紹介する。政治、そして外交も、所与の大情況の中で戦略目標(「何」)を達成するには、誰がいつ行うのか――<行動主体・リーダーシップ>と<時間・タイミング>が決定的に需要な契機となる。
佐藤が、「可能性」を創造する政治を推進する中で構想した外交――それは、自身が司令塔になって表舞台・裏舞台を駆使して展開する外交だった。すなわち、首相官邸を軸に外務省をかみ合わせた公式な外交ルートと密使などを織り交ぜた非公式な外交ルートとの両輪を機能させる外交体制――ここではそれを、日本の伝統的漁獲法によせて「鵜匠外交」と呼ぶことにする[註1]。小舟の舳先で焚かれる篝火を頼りに鵜匠が、飼いならした数羽から十数羽の鵜を操って鮎漁などをする構図に例えたものだ。鵜匠の佐藤栄作が中心となって、外相・愛知揆一をはじめ外務省高官、正副官房長官や若泉敬(京都産業大学教授)、高瀬保(スタンフォード大学フーバー研究所長代理)らを使って推し進めた沖縄返還交渉は、まさに「鵜匠外交」だったと言える。
そこで、1969年の正念場を控えた佐藤が新たな外交体制構築にまず着手したのが、68年11月30日に断行した内閣改造だった。その3日前、自民党総裁選で三選を果たした佐藤は内閣改造で、同月6日の米大統領選で勝利したニクソンの政権発足を念頭に沖縄シフトの人事体制を敷いた。政権の要となる官房長官に調整力抜群の保利茂、自民党幹事長に実力者の田中角栄を充て、外相には佐藤の忠実な配下で内外政策万能型の愛知揆一を配する布陣を早々と決めた。
これに伴う異例の人事として、佐藤側近でマスメディアの受けが良く発信力のある木村俊夫を官房長官から官房副長官に降格、保利を補佐する大官房長制をとった。閣僚経験者が官房副長官に起用された前例はなく、サプライズ人事だったが、その真の狙いは、沖縄問題ばかりでなく大学紛争に対処するための「大学運営臨時措置法案」の成立に向けて閣内及び党との調整を担う官房長官ポストを補強することにあり、佐藤の側用人・木村が世論対策の要として沖縄問題でのスポークスマン役に任じられたのである。
また、「大学運営臨時措置法案」は70年に期限切れとなる日米安保の自動延長に備えたものでもあって、一連の陣容は首相官邸主導型の外交を推進する点に重きが置かれていた。特に表外交での主要プレーヤーとなる外相・愛知は、佐藤の意を忠実に履行、沖縄返還交渉で「可能性の扉」を開くため、「核抜き・本土並み」に腰を引く外務省との接点に潤滑油を流し込む役割を担うことになる。
以上、表舞台で動く対米交渉ルートの陣立てが整った。それと並行して裏舞台のキャスティングが進められ、鵜匠の佐藤が有能な「鵜」として裏舞台に放ったのが密使・若泉、そしてもう一人、情報収集役に当たらせたのが高瀬だった[註2]。ポイントは「政官(政治家と官僚)」一体となって佐藤首脳外交を機能させる政権の基盤固めをすることだった。佐藤は、実際、この体制を機能させるために、幾つかの手を打った。
◇「核抜き」を下田駐米大使に指示
例えば、ニクソン米大統領の就任式を2週間後に控えた69年1月6日、一時帰国した駐米大使・下田武三との会談では、愛知、保利、木村が同席する形で、米国の情勢報告を受けた。この席で下田は、依然として「核抜き」返還が最大の難問であると、頑なに外務省の立場を強調した。就任以来、沖縄問題を最上位の政権課題に掲げて続けてきた佐藤率いる首相官邸と核絡みで問題となるのを恐れて腰を引く外務省との<政官>緊張関係は変わらなかった。が、その転機となる出来事が訪れたのは、下田がワシントンへの帰任挨拶に来た1月13日だった。
「十一時から下田君と再度会見。種々今後のあり方について指示して別れる。勿論保利君と三人」(『佐藤榮作日記』)
下田「沖縄返還問題は、前回の訪米から数えて正に二年目に当たる本年末までにその決着をつける方針で進まれるのが得策と考えます。ただし、本土並みの条件なら早期の決着は可能と思われますが、核抜き返還を条件に加える場合は、現下の国際情勢に鑑み、早期の決着は極めて困難となるものと考えられます」[註3]
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地下基地の発射台に装着した核ミサイル、メースB(1962年4月、沖縄県公文書館所蔵)
下田は、ニクソン新政権発足後の対米交渉に当たって、早期決着で行くのか、早期決着をあきらめても核抜き返還にあくまで固執するのか、二者択一で佐藤の指示を仰いだのだ。
判断を迫られた佐藤は、下田の言葉に長考一番、押し黙った。息詰まるような沈黙が続いた。が、その時、ドアが突然開き、官房長官・保利が執務室に入ってきた。下田によれば、「それが合図となったかのように」、佐藤は口を開いた。
「下田君、やはり核付き返還なんて考えられんよ。あくまで核抜きでいこう」——と。下田には、しばらく言うべき言葉が見当たらなかった。程なくして「承知しました。成否のほどは確信を持てませんが、その方向で最善の努力を尽くしてみます」と言って、首相執務室を辞去した。「下田さん、どうか頑張って下さい」——その時の保利の温もりある言葉が耳に残った。核をめぐる問題で非協力的な「官(外務省)」に対する「政」側から圧力をかけたこの一場面——その下田をめぐる佐藤の対応は、ある種の演技だったと言ってもいいだろう。
下田は、首相の言葉を聞いた時のことを後に証言している。
「(首相は)厳然として裁断を下された。それは長年にわたる沖縄返還交渉の大きな方向を定めた歴史的瞬間であった」[註4]
確かに、表舞台の公式な外交ルートに首相の決断を乗せたことで、佐藤が駐米大使に伝えた、「その時」は「歴史的瞬間」だと言える。すなわちそれは、佐藤が沖縄返還を外交目標に掲げて以来、陰に陽に政権に絡まりついていた<政官>関係の緊張状態に風穴を空けて、政官一体化で沖縄問題に取り組む第一歩となった瞬間だったことは間違いない。佐藤にとっては、沖縄返還問題の「幕間」となった前年から裏舞台でのワシントン情報を丹念に拾って分析し、新たな外交シフトの下で保利と連携、巧みな演出を凝らして外務省に放った衝撃の“一矢”だった。
下田と会ったその日の午後、佐藤はニクソン新政権での国務次官に指名されている駐日米国大使アレクシス・ジョンソンの離任挨拶の訪問を受け、2時間にわたってじっくり今後の日米交渉のスケジュールや沖縄問題に関して懇談した。[註5]『佐藤日記』には、「大変うる処があった。これからの問題だが、国内与論の造成が問題。米国内には米国の世論があり、両者の間の世論のギャップをうめる事がむつかしいが、同時に緊要の事である」とある。
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ゼネストを構えた米軍基地前の集会。ゼネストは屋良朝苗主席の要請で中止となった(1969年2月4日、沖縄県公文書館所蔵)
この佐藤・ジョンソン会談に先立って、地ならしをしていたのは、外相・愛知だった。前年12月28日と年明けの1月9日、二度にわたってジョンソンと会談、愛知は①佐藤が沖縄返還の期日を真っ先に決めること②しかも、11月の日米首脳会談で返還の期日が明示されること——を望んでいると伝えた。そのうえで「米軍側が維持している現在の自由使用の権利は返還後も継続される」「本土並み条件を適用しても地域的安全保障が脅かされないと両国政府が合意した時点で、自由使用の権利を段階的に解消する」との方針を提示した。(『ジョンソン米大使の日本回想』)
前年秋の内閣改造以後、1月13日までの一連の佐藤の言動を振り返ってみると、「この日」の下田との会見は、佐藤栄作が熟技を備えた政治家として、絶妙のタイミングで発動した<誰>と<いつ>が決定的に重要な契機となる「時間の政治学」に則ったものだった。佐藤の指示を受け、官房長官・保利が招集した外務省幹部との秘密打ち合わせ会が2月18日に開かれたが、それも、首相官邸主導で外務省と密に連携して対米交渉を進めるための「鵜匠外交」の基盤づくりの一環だった。[註6]
◇若泉の進言「核抜きで行ける」
首相・佐藤が、「核抜き・本土並み」の方針を具体的にいつ決断したかには、諸説ある。巷間、佐藤政治には「待ちの政治」というレッテルが貼られていた。このレッテルに同意するか否かで、佐藤を情況対応型の政治家と見るか、むしろ先手を打って最も効果的なタイミングで事を起こす「攻めの政治家」と見るか——佐藤に対する評価が分かれる。この点、佐藤政権の沖縄返還交渉に裏舞台で深く関与した若泉敬は、後者の立場に立つ。「当時巷間いわれていたようにただ無為無策に、ワシントンの風向きを見ながら決断を一日延ばしにしている、いわゆる“待ちの政治”でなかったのではないだろうか」[註7]
前年の1968年を例にとると、『佐藤日記』では、若泉が佐藤と直接会って、ワシントン情報を報告し、時間をかけて話し合ったのは、6月10日、12月23日の2回。6月10日は「若泉敬君米国から帰国し、その報告をきく」、12月23日は「若泉君と約1時間懇談、彼氏渡米する由」とある。これらの面会以外に、若泉は6月と10月、楠田實(首席秘書官)を通じて「総理宛直披」のコンフィデンシャル・レポートを何通か届けている。

ジョンソン米大統領を表敬する若泉敬。左はロストウ特別補佐官=鯉渕信一氏所蔵
このうち、68年6月15日付レポートを読んだ多くの者が一様に驚いたのは、今後の沖縄問題におけるジョンソン政権の考え方、権力内分析の正確さだった。若泉は、ジョンソン大統領、ラスク国務長官をはじめ、ホワイトハウス(ロストウ大統領特別補佐官)、国務省実務レベルの幹部(スナイダー極東部長)、国防省幹部(ウォンケ国防次官)らと懇談、コンフィデンシャルなレポートに仕上げており、佐藤がワシントンの動きを見極めるのに、若泉情報は欠かせないものとなっていたに違いない。
その概要によると、既にジョンソン政権は、67年11月の佐藤・ジョンソン共同声明に盛り込まれた「(沖縄返還を)両三年以内(within a few years)にメドをつける」ことを既定路線として、69年中に返還の日取りを決める腹を固めている。
ただ、返還への方法論については、「タイムテーブル」を先に決めるか、「基地の態様」で合意するかで、分かれている。国防省はまず日時を決め、国際情勢の動向を踏まえて、3~5年の間に、基地の態様を決めるという考え方。国務省側はそれも一案としながらも、69年中にはメドをつけるということでは一致している。
このほか若泉は、68年12月4日から日米政府間政策企画協議(静岡県伊豆下田)に出席のため来日した旧知のハルペリンと3回にわたって、さらにスナイダーとも会うなど、ワシントンの動きや情報をきめ細かく探った。米側要人との一連の率直な意見交換によって、「沖縄返還時における『核抜き』だけは、ニクソン新政権下においてもなんとか実現できるだろうとの見通しを強めた」[註8]。若泉は12月23日、首相と会った際に、現時点での判断として「他の条件では若干妥協せざるを得ないとしても、『核抜き』だけはニクソン新政権を相手になんとか行けそうだ、とかなり自信をもって言い切った」。そのうえで、なんとしても「核抜き」だけは貫いてほしい、との願望と気魄を込めて献策し、強く総理の決断を促した。[註9]
◇「白紙」を貫き通した佐藤
佐藤は、若泉の報告をじっと聞き入っていたが、いつものように、自ら口を開くことも、直接反応を示すこともなかった。岸信介(元首相)や福田赳夫(自民党幹事長、後に首相)のように打てば響く「簡潔明快な論理的反応とは対照的」[註10]で、質問にも独特の曖昧な表現によって若干そらす素ぶりをすることさえあった。番記者からは「寡黙の政治家」と称され、自らの政治をマスコミに語ることはほとんどなかった。
佐藤の口の堅さと人一倍強い警戒心、秘密主義に徹する政治スタイルは、自由党幹事長時代、造船疑獄に巻き込まれ、指揮権発動によって逮捕を免れたという暗い記憶にも関係しているとも言われる。その真偽はともかく、佐藤は沖縄返還──特に「核抜き」問題に関して、腹の内を見せることなく、「白紙」を貫き通した。若泉は、佐藤の言質を取ったわけではないのだが、それでも、何度か直近で相対して言葉を交わす中で、次のような感触を持つようになった。
「私は、佐藤総理が外務省事務当局の見解に反し、内心ではできることならなんとか『核抜き』で行きたいとの希望を、かなり以前から、しかも次第に強く抱くようになっていて、その実現を望みつつ『白紙』のフリーハンドを堅持し、決断のタイミングを注意深く探っているのではないか、と思い始めていた」[註11]
終始、佐藤に黒子として仕えた楠田は、「核抜き・本土並み」で踏み切るにことついて「十分な裏づけをもっていたかどうかということになると謎」としながらも、「世論の動向からみて、いずれそこまで追い込まれることは必至として“先手”をとったということかもしれない」[註12]と見ていた。
以上が、佐藤が組み立てた沖縄返還交渉に向けた外交体制だが、繊維問題と並ぶもう一本の双曲線——沖縄問題の実際はどうなっていったのだろうか。 (つづく)
<註釈>
[1]本連載第13回中の「鵜匠方式・佐藤外交の欠陥」参照。また、佐藤のこの政治手法を「鵜匠と鵜」の関係に例えたのは、若泉敬を知る元政府高官と話していて示唆を受けたことによる
[2]本連載第12回「『早耳栄作』のメッセンジャー高瀬保」参照。また、佐藤には個人的なつながりで「密使的な役割」を担わせた者が他にもいた。『ジョンソン米大使の日本回想』には、1970年秋、繊維問題で「新しい密使をキッシンジャーに派遣し」てきたとの記述がある。対中関係では、江鬮眞比古なる人物が知られており、『佐藤榮作日記』に登場する。
[3][4]下田武三『戦後日本外交の証言<下>』
[5]本連載第7回「首相・佐藤栄作の深謀遠慮・上」参照
[6]本連載第8回「首相・佐藤栄作の深謀遠慮・下」参照
[7][8][9][10][11]若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』
[12]千田恒『佐藤内閣回想』

鈴木 美勝(すずき・よしかつ)
ジャーナリスト(日本国際フォーラム上席研究員、富士通FSC客員研究員、時事総合研究所客員研究員)、 早稲田大学政経学部卒。時事通信社で政治部記者、ワシントン特派員、政治部次長、 ニューヨーク総局長を歴任。専門誌『外交』編集長兼解説委員、立教大学兼任講師、外務省研修所研究指導教官、国際協力銀行(JBIC)経営諮問・評価員 などを経て現職。著書に『日本の戦略外交』『北方領土交渉史』(いずれも筑摩書房)、『いまだに続く「敗戦国外交」──「衆愚」の時代の新外政論』(草思社)、『小沢一郎はなぜTVで殴られたか──「視える政治」と「視えない政治」』(文藝春秋)、『政治コミュニケーション概論』(共著、ミネルヴァ書房)。