• HOME
  • コラム
  • グローバル・アイ 西川 恵(ジャーナリスト)

グローバル・アイ
西川 恵(ジャーナリスト)

レオ14世(ローマ教皇庁HPより=https://www.vatican.va/content/vatican/en.html)

コラム

第10回 戦争、核……バチカン内の二つの思想潮流

 ロシアによるウクライナ侵攻をめぐって、停戦交渉の仲介役としてローマ教皇レオ14世への期待が高まっている。米国出身の初の教皇である。ウクライナのゼレンスキー大統領は5月18日、レオ14世と面会し、交渉の場所にローマ教皇庁(バチカン)を提供する意思を示したことに感謝を述べ、「聖座の権威と声はこの戦争を終結させるために重要な役割を果たせる」と表明した。トランプ米大統領もSNSに「バチカンが交渉を主催することに非常に関心を持っている」と書き込んだ。

 戦争や核について、バチカンには大きく二通りの考えがある。
 一つはヨハネ・パウロ2世(在位1978年~2005年)に代表される考え、もう一つは今年4月に亡くなったフランシスコ教皇(同2013年~2025年4月)が代表する考えだ。

サン・ピエトロ広場

 ヨハネ・パウロ2世は「正義の戦争」(正戦論)を認め、他の方法がついえた時に残された手段として正当防衛が認められるとし、教皇の座にあった1992年にカトリック要理で規定した。元々、キリスト教の主流派は正戦論の立場に立っており、その目的は戦争を阻止し、その残虐さに歯止めをかけることにあった。

 同教皇はポーランド出身で、東西冷戦の対立が頂点にあった78年、コンクラーベの第8回の投票でやっと選出された。社会主義諸国からは初めてだった。このニュースが伝わった時、ソ連の共産党幹部は「これは陰謀だ」と叫んだという逸話が残っている。ポーランドは国民の大半がカトリック信者で、同教皇の選出は社会主義体制を内部から掘り崩そうとする西側の企みと読んだのだ。

 これはその読み通りになった。同国では89年6月に社会主義国初の自由選挙が行われ、非共産党政権が発足。5カ月後の「ベルリンの壁」崩壊の引き金となった。
 同教皇の核に対する姿勢も「正義の戦争」に通じるものがある。70年代半ば、ソ連が核搭載可能な中距離ミサイルを東欧諸国に配備した時、米欧はこれに対抗して同様の中距離ミサイルを西欧諸国に配備した。いわゆるユーロ・ミサイル危機だが、同教皇は「均衡に基づく核抑止は、核廃絶に向けた一つの段階としては倫理的に受け入れられる」と認めた。81年に来日した時も、広島で「核兵器の非人道性」に触れたが、「核保有」は非難しなかった。
 同教皇は権威主義体制の権力政治を間近に見て育った。「正義の戦争」や「核抑止」を是認する姿勢には、育った環境が投影していると仏紙は指摘している。

 一方、南米初のアルゼンチン出身のフランシスコ教皇は、豊かな「北」に対する貧しい「南」の教皇と自らを位置づけ、「貧しい人と共にある教会」を標榜。その言動はしばしば理念的、理想主義的な色彩を帯びた。60年代に中南米で始まった、貧困や不正義、抑圧に対するカトリック教会の実践的な取り組み運動「解放の神学」の影響もあったのかもしれない。

フランシスコ前教皇

 戦争についても絶対平和主義の姿勢を堅持した。ウクライナ戦争勃発直後に伊紙が「米欧がウクライナに武器支援をすることは正しいと思うか」との質問に、「どう答えていいか分からない」と言葉を濁した。また戦争の原因についてロシアには触れず、「第三者が招いた」と述べて、北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大や、それを進めた米国を批判しているのではないかとの憶測を呼んだ。

 ただ絶対平和主義的な姿勢はウクライナとロシアを同じレベルで見ることになり、ウクライナ側の不満は大きかった。開戦からしばらくたった時にフランシスコ教皇が和平調停を試みたが、ウクライナ側が受け付けなかった。
 核問題についても同教皇は2013年に就任すると、従来の立場の再検討を指示。翌14年にウィーンで開かれた核に関する国際会議で、バチカン代表は「核抑止が平和への基礎を生み出しているか、よく考えるべきだ」と呼びかけた。さらに17年にバチカンが主催した「核なき世界」についての国際シンポジウムでは、フランシスコ教皇は「核兵器の保有は断固として非難されるべきだ」と指摘した。

 対ロシアと同様、中国に対する融和姿勢も歴代教皇の中では顕著だった。中国の地下教会のカトリック信者をバチカンの下に包摂する必要性が念頭にあったからかもしれないが、権威主義体制に甘すぎるのではないかとの意見はバチカン内にあった。

 コンクラーベでのレオ14世の選出には、前教皇が中露に融和的だったことを懸念した枢機卿たちの「バランスを回復すべきだ」との集合知が現われたという解説もある。前教皇の時とは一転して、ゼレンスキー氏が教皇の調停に期待を示したのも、ヨハネ・パウロ2世の考えに近いものを現教皇に見ているからかもしれない。

【略歴】
西川 恵(にしかわ・めぐみ) ジャーナリスト、毎日新聞客員編集委員
1947年生まれ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を歴任。フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。日本交通文化協会常任理事。著書に『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)など。

ピックアップ記事

関連記事一覧