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激動の世界に必要な戦略的外交(上)
 谷内 正太郎・初代国家安全保障局長に聞く

インタビューに答える谷内正太郎・初代国家安全保障局長=中澤雄大撮影

戦後80年

「積極的平和主義」への道

 戦後80年を迎えた国際政治は激動と混乱の中で大きな節目を迎えている。これからの日本はどう進めば良いのか。冷戦の真っただ中から外交の最前線で活躍し、第二次安倍晋三政権時に新設された国家安全保障局の初代局長として戦略的外交を支えた谷内正太郎やちしょうたろう氏(元外務事務次官、現富士通フューチャースタディーズ・センター理事長)に話を聞いた。日本は否応なく世界の中で「メジャー・プレーヤー」たらざるを得ず、その覚悟を持って外交・安全保障政策を進めるべきだと言う。

◇学生時代、現実主義外交に惹かれ若泉敬氏と出会う
──谷内先生が外務省に入られた1969(昭和44)年当時は、国際的には社会主義陣営の勢いも強く、国内の外交・安全保障の議論でも左翼的な論調が強かった時代と思います。その中で外務省は現実主義的に実際の外交を進めていたと思いますが、先生はどういう考えでおられたのでしょうか?
谷内 私は学生時代から現実主義に惹かれ、そちらの方が説得力があると思っていました。しかし当時の大学は左翼ばかりが幅をきかせ、物言えば唇寒しみたいな所がありました。60年安保の後で、自衛隊や安保をめぐる議論が非常に活発な時期でした。ベトナム戦争もあり国民の関心も高く、国会の安保論戦も盛んでした。
 当時は、いわゆる現実主義と理想主義の立場が論壇等でもはっきりしていて、国際政治学では高坂正堯まさたか先生(京大)、永井陽之助先生(東工大[現東京科学大])、それに若泉敬先生らが現実主義の立場、東大の坂本義和先生などが理想主義の立場の議論をされていました。

谷内氏が寄宿していた頃の若泉敬。当時は「密使」として、佐藤栄作首相に訪米報告をしていた(伊藤隆著『佐々淳行・「テロ」と戦った男』ビジネス社刊より)

──特に若泉先生には強く影響を受けたと著書でも書いておられますが、どういうご縁ですか?
谷内 大学1年の秋に友人に誘われ、(当時の風潮に反発する)保守的、現実主義的な人たちが集まる「土曜会」という学生の勉強会に入りました。そこの先輩との飲み会で14歳年上の若泉先生に出会ったわけです。大学院時代は若泉さんが所属する京都産業大学の世界問題研究所(東京・千駄ヶ谷)で新聞の切り抜きなどのアルバイトをしました。外務省入省時に独身寮に入れずに困っていたら、若泉さんが「うちの小さい部屋が空いているから、来なさい」と言って下さり、約1年間、家賃も払わず、ご飯も食べさせてもらうという居候でした。
 ちょうど沖縄返還交渉の頃で、私がその居候をしている時に、例の秘密の核持ち込みの合意議事録みたいなものを作ることに尽力しておられたと思いますが、当時は何をされているか全然知りませんでした。そういうことは一切、彼は言いませんでした。ですから、あの本(『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』94年5月刊)を書かれたのは私にとってはすごく意外でした。秘密はもう絶対に死んでも守るという人でしたから。しかし、沖縄の人に対して申し訳ないという悔恨の気持ちから書いたということでした。
 若泉さんは、ともかく誠実で真面目人でしたね。顔もそうでしたが、すごくシャープな人でね。まあ、一言で言うと「国士」ですね。人間的には非常にストイックな人でしたね。

◇現実主義根付くのが「too late」 に感じた
──入省した頃の外務省の雰囲気はどんな印象でしたか。
谷内 外務省に入ってみると、さすがに非武装中立という人はいませんでしたが、戦後の日本の平和主義的な立場にかなり影響されている印象でした。外交政策として、個人の信条では「こう行くべきだ」と思っていても、国会、特に野党、マスコミとの関係を考えると、真ん中からやや左の方、中道左派に近い政策に持っていかないと説得力がないと考えているようなところがありましたね。しかし、冷戦が終わるまでの間に、いろいろ国際的な事件に直面し、大きなインパクトを受けたことで、現実主義的な立場が徐々に根付いていったなと思います。私個人としては、その根付き方はtoo late(遅すぎ)という感じはしましたが。

 中でも冷戦崩壊の時期、特に湾岸戦争(1990―91年)の際、日本が一国平和主義、一国繁栄主義という批判を受けたことが大きかったと思います。日本としてはそれなりの国際貢献をしたつもりだったのですが、全然評価されないという事態でした(米軍中心の多国籍軍に30カ国以上が参加。日本は後方支援も含め自衛隊は派遣せずに総額130億円の資金を協力、停戦後にペルシャ湾に機雷除去のために海上自衛隊の掃海艇を派遣した)。
 安倍政権は第二次政権の時に、戦略的外交という考え方から「地球儀を俯瞰ふかんする外交」と、それから「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を提唱したわけですが、特に後者の考えは、この教訓を踏まえたものだと思います。国際的に見て日本の国際政治感覚はまだ少し遅れていますが、徐々に追いつきつつあります。ただ心配なのは今のように国際情勢が激変する中で、日本の体制がそれについていけるのか、対応できるのかということです。

◇湾岸戦争時の「同盟国とは思えない作法」
──湾岸戦争の当時、どういう体験をされましたか。
谷内 私は在米大使館の参事官、経済班でした。その頃の日本は、経済的にアメリカの最大の脅威とされ、「ソ連の軍事的脅威よりも深刻だ」とさえ言われ“敵国扱い”でした。(日米貿易不均衡の是正を目指した)日米構造協議(89―90年)などの議論があり、そうした状況の中で湾岸戦争が起きたわけです。(多国籍軍が形成される中で)私は、日本は自由主義陣営の一員として、日米同盟のもとでしっかりと自由、民主主義の価値観を重んじる国々との関係を強化しつつ対応する必要があると思いましたが、伝統的な憲法上の議論から自衛隊は絶対出してはいけないというのが外務省内でも非常に強い意見でした。

米国がイラクを爆撃したことを報じる当時の新聞(『毎日新聞』1991年1月17日付夕刊1面)

 国内では、海外に自衛隊を出してそこで戦闘行為を行ったり巻き込まれたりするのは、戦後の平和主義の考えに反するという議論が非常に強かったわけです。しかし、アメリカにいると、アメリカ国内での相場観は全然違うわけです。「日本はずるい」「金もうけばかりやっていて、血も汗も流さない」。そういう国民だという批判が非常に強くあったものでした。当時は非常に大きな焦り、下手をすると日米同盟解消にもなりかねないという危機感がありました。
──日本の外交官として肩身の狭い思いをしたということですか。
谷内 そうですね。アメリカの議会やシンポジウムなどでひどく叩かれました。これが同盟国に対する作法なのかと思う程ひどかったですね。

◇小泉政権時に「二次試験」にパスした気持ち
──その後、冷戦が終わり、21世紀に入ってきたわけですが、安倍晋三政権に至るまでの変化は?
谷内 日本は徐々に努力してきたと思います。日米安保共同宣言(96年4月=橋本龍太郎首相、クリントン大統領)などにより日米の同盟関係を強化するという中で、米同時多発テロ(2001年9月11日)が起き、それに続くイラク戦争(2003年3月20日~11年12月15日)があったわけです。
 当時は小泉純一郎政権で、私は外務省の総合外交政策局長から官房副長官補として官邸に行っていました。日本外交は湾岸戦争での第一次試験でほとんど不合格に近い評価だったので、二次試験でも同じような批判を受けたら日本外交のダメージは大きいと思い、テロ対策特別措置法(米国などによる「対テロ戦争」の後方支援を定めた法律。インド洋に自衛艦を派遣し米艦に給油などを実施)を作り、さまざまな対応をして、きちんとやったと言われるようにという気持ちが非常に強かった。その第二次試験はパスしたと思っています。
 当時のマスコミからは、「外務省は湾岸戦争で懲りて前のめりになっている」と批判されましたが、私個人は日本の同盟国としての立場、自由陣営の立場から考えて、日本の対応は間違っていなかったと思います。
──小泉首相はアメリカのブッシュ(子)大統領との関係が良かったですね。
谷内 小泉・ブッシュ関係は非常に重要な要素でした。その後の安倍晋三首相とトランプ大統領との関係にもあるように、首脳間の一定の信頼関係は同盟関係の最も重要な要素と言っていい程の重要性を持っています。

◇第二次安倍政権で示した「覚書」
──安倍政権の話に移りますが、その前に、先生と安倍晋三さんとの出会いはどういうことからでしたか?
谷内 安倍さんが父である安倍晋太郎外相の政務秘書官として外務省に来られた時に、私は松永信雄事務次官(在任=83年1月~85年1月)の秘書官で、隣の部屋におりまして、その頃から知っていました。私は岡崎久彦さん(外務省初代情報調査局長、駐サウジ、タイ大使などを歴任。後に外交評論家)にご指導をいただいて、彼の勉強会、懇親会みたいな、酒を飲んでワイワイ議論する、そういう会でよくご一緒することがありました。
──第二次安倍政権発足時に外交の基本方針について覚書を渡されたそうですが。

首相官邸HPより

谷内 総選挙が終わって政権が発足する前、2012(平成24)年12月だと思います。申し上げた第一のポイントは、長期政権をやっていただきたいということでした。それまで6年間で6人の首相が出て、私自身も外国の外交官などから個人的にもいろいろと皮肉を言われていました。「日本の外交方針はこうだとか言ったところで、首相が代わればどうなるかわからないだろう」などと、からかいの対象でした。また第二のポイントとして、政策目標は優先順位をつけ、大目標、中目標、小目標に分けて整理する。特にこれは大事という大きなところから当面の問題まで分けて考えた方が良いと申し上げました。
 大目標は憲法改正でしょうと。安倍さんには保守の期待がものすごくありましたが、保守の純化路線をあまり突き進んでいくと憲法改正は成り立ちませんと申し上げました。ウイングを広げること、柔軟性が必要とされると思いますということです。全部口で話すのは大変なので、自分で作った紙をお渡ししたわけです。

◇大目標としての「対等な日米安保体制」とは
──大目標としては憲法改正とともに、「対等な日米安保体制」と言われたそうですが、「対等な」の意味は?
谷内 日本の外交安保政策を考えると、日米安保は決定的に重要だと思います。しかし、日米安保条約は、日米双方が違った意味で片務的と考える側面があり、特にアメリカには不公平だと考える人が少なからず存在する。トランプ大統領がよく言うように、自分たちは日本を守る義務があるけれど、日本はアメリカを守る義務がないじゃないか、というところを、そういう論点がないような対等な条約にすべきだと考えたのです。日本の外交安保の主体性を保つためにも、日米安保体制をより双務的にする必要がある。ただし、すぐにそれをやろうと言っても無理なので、大目標として目指すということです。憲法改正と同じように。
──これらは安倍首相も賛同されたということで。
谷内 全部真剣に聞いておられて、自分の考えと基本的に同じだ、と思われたようでした。これは違うだろうというようなことは言われなかった。

◇国家安全保障局の新設
──国家安全保障局も前から懸案としてあったと思いますが、ぜひやってくださいということですか。
谷内 国家安全保障局は、私が外務次官の頃に安倍第一次政権でそういう発想があったわけです。ただその時は各省から一人から二人ぐらいで、全部で20人ぐらいのこぢんまりしたものを作るようなイメージでしたが、私は、やる以上はアメリカのNSC(国家安全保障会議)に匹敵するしっかりした機関を作る必要があると思っていました。そもそも安倍さんの戦略的外交の二つの非常に大きな柱は、首脳外交をやることと、国家安全保障局で政策立案をしていくことでしたから。
──当初イメージされた国家安全保障局のようになったと言えるのでしょうか。

国家安全保障局長辞令交付式(2014年1月7日付、政府広報オンラインより)

谷内 結果としてはいろんな意味で良かったと思います。一つは安倍さんの強力なリーダーシップ、それから菅義偉官房長官、二人が非常に強力にサポートしてくださいました。外務省と防衛省、自衛隊が中心になりますが、従来あった権限争い的なものを乗り越えて議論がスムーズに行われ、政策決定が効率化しました。それぞれの役所が一流の人物を送り込んでくれたのも良かった。最初の全体会合で私は「みなさん、外務官僚だ、防衛官僚だとか、そんな狭い枠ではなくて、国家官僚という自覚と誇りを持ってやってください」と非常に強く言いました。後に「あれで自分の自覚が高まった」と言ってくれる人が複数いて、良かったかなと思っています。

──国家安全保障局長への就任要請はどういう経緯で?
谷内 安保局長になってほしいということは二度程話があって、そのたびに「現役を退いて6年になり、私はいろいろな仕事を引き受けているので勘弁してください」と辞退していました。ただ、首相が「調子が狂うよ」と周囲にこぼしておられると聞いたので、3回目は受けるつもりでお会いしました。

◇安倍第一次政権から進めていた集団的自衛権問題
──集団的自衛権の解釈変更と安保法制(平和安全法制)について、安倍政権は、支持率低下も承知の上で実現したと思います。これには長い経緯があったようですが。
谷内 これは第一次政権からの大きな懸案でした。第一次政権の時に、集団的自衛権を行使し得るように日本政府の解釈を変更しようとしました。安倍さんも私もそういう認識です。日米安保条約には集団的自衛権が書いてあるわけです(「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」と前文に記述)。国際法上で国家固有の権利と言われる、個別的、集団的自衛権について、憲法がその行使を否定しているというふうには我々は思っていなかった。平和主義的な国民感情が根強いという現実への妥協、あるいは野党勢力への妥協として、ああいう政府解釈(集団的自衛権は保有すれども行使し得ず)を取ってきたという認識を持っていました。今の国際情勢に合わせて集団的自衛権は行使し得るというふうに変えたいと考えていたわけです。筋から言えば憲法を改正してすっきりさせた方が良いと思うのですが、それは今やれと言われてもできない。国際情勢の進展に日本の防衛体制がついていけないことになりかねないので、次善の策として硬直した憲法解釈を柔軟化しようということです。
 安倍第一次政権では、柳井俊二さん(元外務事務次官、駐米大使など歴任)が座長を務めた安保法制懇談会(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)で報告をもらう直前まで行きました。(安倍首相が2007年9月に退陣し、次の福田康夫首相が報告書を受領したが、そのままに)。そこで第二次政権でもう一度、安保法制懇談会をやり直して新たな報告書をもらい(14年5月)、平和安全法制を作ることになりました。

──集団的自衛権の解釈変更については、安倍首相が2013(平成25)年8月、国際法局長を経て駐仏大使をされていた小松一郎さんを内閣法制局長官に起用しました。谷内先生が小松さんを推薦されたのでしょうか?
谷内 私だけじゃないですけどね。麻生さんも非常に強く推しておられました。とにかく内閣法制局は伝統的な解釈に縛られていましたから、法制局でずっとやってきた人だと憲法解釈の重要部分を変更するとは言いにくいだろう。責任者を変えた方が法制局プロパーの人にとっても良いのではないかと思いました。もともと小松さんはそういう信念をもった極めて優秀な人で、彼以外にこの重要な役目を果たせる人はいない。ただ、彼が一番適任ではあるんですが、誰が見ても「おめでとう」とお祝いできる役割ではないから心苦しかったです。しかし、彼は単身で法制局へ乗り込んで、非常に立派に仕事をし、法制局の中でも尊敬を受けていました。大したものだと思います。彼に対するプレッシャーは想像を絶するものがあったと思いますが、その結果彼の寿命を縮めてしまったのではないかと今でも心が痛みます(14年6月死去)。

編集長・冠木雅夫の質問に答える谷内正太郎氏=中澤雄大撮影

 いろいろ紆余曲折がありましたが、要するに、集団的自衛権をフルに行使できるのではなくて、「存立危機事態」という非常に限られた場合に「必要最小限度」の行使をし得るという解釈に変更したのです。憲法解釈を変更するというのは、そう簡単な話ではなく、特に安全保障に関するものについては非常にセンシティブなわけですが、これは本当に安倍さんでなければやれなかったでしょう。当初は支持率が10ポイントぐらい落ちたわけですが、今は、「あれは良くなかった」と思っている人は少なくなっていると思います。世論調査では、もうだいぶ前から逆転しています。<朝日新聞世論調査では安保関連法について成立直後の2015年6月が「賛成」29%、「反対」53%。20年11月が「賛成」46%、「反対」33%>

◇安倍政権の対ロシア、中国外交の狙い
──安倍政権時の外交、ロシア、中国について、どういう全体の構造の中で考えておられたのでしょうか。
谷内 ロシアについては、安倍首相のお父さん(安倍晋太郎外相)が晩年、本当に命がけで北方領土の問題を解決しようと旧ソ連に働きかけたという経緯があって、その遺志を継ぎ何とか自分が首相の時に領土問題を解決して平和条約を締結したいと思っていたわけです。ちょうど、柔道が大好きで日本に対する理解があると思われたプーチン大統領だったので、首脳外交でやるのが一番良いと考えたと思います。それが片付けば日本とロシアの間で大きな問題はなくなるわけです。経済、資源、エネルギーの協力もできるようになる。安倍晋三さんはそういう構想を持っておられた。さらに中国との関係もにらんでいました。当時は米露関係がすごく悪かったので、そういう時にロシアとの関係を改善しないと、今起きているように中露が接近することにもなりかねないという懸念がありました。そういう考慮はあったと思います。

プーチン露大統領

 中国との関係は、歴史的にいろいろな経緯があります。中国のマーケットは日本にとってものすごく大事です。日米同盟は大事ですが、それと同時に中国とは健全な隣国関係を築いてゆく必要があるというお気持ちが安倍さんにはあった。中国はトップダウンの国で、習近平さんの存在感は大きかったですから、良い関係を築きたいと思われていた。だけど、簡単ではなくて、靖国問題を含め歴史認識の問題については、中国は自分たちに都合の良い時に取り上げたり、静かにしたりということをやってきます。それに対処するためにも首脳間に一定の信頼感が必要です。それから、海洋進出。南シナ海、東シナ海での中国の動きが非常に活発化していたので、それに対しても首脳外交でなんとか、中国が国際法を尊重した態度を取るように直接訴えかけたいと思っておられたと思います。

◇第二次政権発足直後の靖国参拝は取りやめに
──靖国参拝については、2012年12月26日の第二次政権発足直後、内閣官房参与の時、安倍首相が「靖国へ行く」と言うので反対されたそうですが。
谷内 安倍さんの第一次政権の時には就任直後のいわゆる電撃訪中があったわけです(06年10月)。小泉政権で日中関係が悪くなった後ですね。その時には「靖国に参拝しないという条件なら首脳会談をする」というのが中国の態度でした。そこで国内で、「行った・行かなかった」、あるいは「行く・行かない」は一切言わないから、あなた方もそれをわざわざ取り上げる必要はないのではないですか、ということを丁寧に説明した。その過程を経て、安倍首相の電撃訪中が実現したわけです(当時外務次官だった谷内氏が中国の戴秉国たいへいこく・中国外務次官[後に胡錦涛こきんとう政権で外交トップの国務委員(副首相級)]と秘密裏に交渉していた)。

戦争の時代から始まった「昭和」も100年を迎えた。写真は靖国神社

 安倍さんと私は以前から靖国の問題で随分議論していたのです。私の慎重論については百もご承知なので、その時には別に大激論したわけではありません。安倍首相が靖国へ行きそうだという時に、官邸サイドから「靖国参拝の動きがあるので、意見を言ってくれ」と強く依頼されたのです。首相には「私の靖国参拝に対する意見は随分議論したので申し上げませんが、今から政権を始めるという時に、これをされるとダメージが大きいし、中国はそれを必ずカードとして利用しますから」ということを言いました。
──その時は参拝を取りやめることに。
谷内 その時はね。「分かった」とか、そういう言い方はなかったですが、大体もう分かっているから、というような雰囲気でしたね。 (つづく。次回は7月10日公開。取材・構成=冠木雅夫)

【略歴】
谷内 正太郎(やち・しょうたろう)
1944年石川県金沢市生まれ、富山県育ち。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。69年外務省入省、米タフツ大学フレッチャースクール研修、ハーバード大学国際問題研究所フェロー。人事課長、ロサンゼルス総領事、条約局長、総合政策局長などを歴任。内閣官房副長官補として安倍晋三官房副長官の下で拉致問題などに取り組む。2005年1月~08年1月まで外務事務次官。退任後、09年に政府代表、12年第二次安倍政権での内閣官房参与などを経て、14年1月に初代の国家安全保障局長(19年9月まで)に就任し、第二次安倍政権の外交安全保障政策を支えた。20年より富士通フューチャースタディーズ・センター理事長。著書に『外交の戦略と志』(産経新聞出版)

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