帝国劇場と俳優座劇場─閉館のゆくえ(上)
井上 理惠(桐朋学園芸術短大名誉教授)

お堀端から日比谷、丸の内を望む。中央には数々のドラマを生んだ帝国劇場の文字が見える
商業と非商業──成り立ち異なる二劇場の未来を考える
歴史ある現代演劇の二つの劇場が閉館した。帝国劇場(帝劇)は商業演劇の、俳優座劇場(俳優座)は新劇の、重要な拠点であった。現在、近代的劇場とは異なる大小の上演可能空間が、各地で生まれている。が、この二つの劇場の登場は近代演劇史上特別な意味を持つ。帝劇は明治近代社会の国策の象徴であったし、俳優座は敗戦国日本の現代演劇の未来を拓く劇場だった。共に国家の援助はなく、前者は演劇とは無縁の財界人の、後者は俳優の、一種の道楽仕事から始まった。
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『風と共に去りぬ』(井上理惠『菊田一夫の仕事』より)
帝劇はさまざまな現代芸術を舞台に上げてきた。1911年の開場から31年まで演劇公演、31年11月から40年2月まで発声映画、40年から54年まで演劇公演、55年から64年までシネラマ上映〔註1〕、その年閉館。新帝劇開場は66年、世界初演ストレートプレイ〔註2〕『風と共に去りぬ』(菊田一夫脚色台本・演出、那智わたる・有馬稲子主演)で始まり、以来ストレートプレイとミュージカルが舞台に乗り、近年は海外ミュージカル専用劇場化していた。2030年に開場予定。俳優座は一貫して新劇公演の牙城であった。六本木地域再開発のため閉館した。開場予定は不明。
全てにおいて異なる二つの劇場─商業演劇と非商業演劇─の登場時を振り返りながら、21世紀の劇場に未来はあるか否か、素描したい。
◇帝劇の登場
明治近代社会は保阪正康の瞠目すべき指摘のごとく帝国主義化を急ぐ哲学なき軍事重視の政権が、三つの戦争で儲けて近代化を進めてきた。明治の現代演劇も歩みを揃えるかのように、近代化を突き進む日本社会の時事問題や戦争芝居を上演して新演劇を広め、定着させた。演劇は常に社会の中で生きているから、まずは社会時評芝居になる。上演する場─劇場は、国家の<近代的劇場改革>という要請で、演劇関係者以外の人々の手で洋風の近代的大劇場が出現する。帝劇以前に登場した洋風劇場にも触れ、演劇興行と劇場の関係を見ていくことにしよう。
1889年に初登場した歌舞伎座は、演劇関係者以外の人間が初めて計画した劇場だった。渡航経験のある知識人・福地源一郎(櫻痴)と金融業者・千葉勝五郎が建てた(外見は洋風、内部は和風、2000~3000人収容可)。この劇場は1913年に松竹の傘下に入る。
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貞奴と川上音二郎『祖国』(井上理惠『川上音二郎と貞奴』Ⅲより)
新演劇を始めた新俳優・川上音二郎も、フランスから帰国後の1896年に川上座を建てた(1000人収容可)。劇場改革(チケット販売方法)を試みたものの芝居者たちの反対に遭ってうまくいかず、しかも資金繰りに苦慮し株式会社化を急いだが間に合わず手放さざるを得なくなる。資金のない俳優による劇場運営の困難さを知らせる初めてのケースであった。この失敗は演劇資本家─興行会社の登場を必然化する。
1908年に伯爵・柳沢保恵ら華族や富裕層が建設した有楽座は、初めての全席椅子席、orchestra box、食堂、休憩室を持つ900人収容の近代的劇場で、新劇やお伽芝居が舞台に乗った。華族たちで構成された株式会社高等演芸場が運営していたが、20年に株式会社帝国劇場に合併され1018人収容の大劇場に改築される。
最後に登場した株式会社帝国劇場は財界人・渋沢栄一、福沢捨次郎、荘田平五郎、福沢桃介、日比翁助、田中常徳、西野恵之助らが創立委員となって11年に完成した。ルネサンス式建築は、改良演劇上演劇場・「国賓クラス」の招待可能な劇場として登場し国立劇場の代替とも言われた。切符販売や運営等全てが近代的方式で江戸期以来の旧弊は一掃される。
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日本初のトーキー映画『マダムと女房』(五所平之助監督、1931年)
開場から29年末まで、帝劇専属俳優(歌舞伎俳優や帝劇女優)の歌舞伎や新演劇、坪内逍遥・島村抱月以降の新劇集団(文芸協会、自由劇場、芸術座、近代劇協会、貞奴一座、新国劇、築地小劇場、新築地劇団)、海外巡演一座等、同時代のさまざまな演劇が帝劇の舞台に乗り、明治・大正・昭和期の多くの観客に<夢や驚き><世界の文化や思想>を伝播した。
世界恐慌が原因と推測されるが、30年から松竹興行株式会社に10年間賃貸し、松竹傘下の集団(喜多村一座、曾我廼家五郎一座、左団次一座、井上正夫一座、水谷八重子一座、文楽)が舞台に乗る。が、松竹蒲田制作のトーキー映画『マダムと女房』が完成すると、8月中はこれを上映し、以後11月から40年の契約解除まで、外国映画や松竹制作のトーキー映画上映館になる。新しい発声映画は商売になったのである。
◇政治・経済が上演を翻弄 劇場運営は資金が鍵に
32年に小林一三は株式会社東京宝塚劇場(東宝)を創設、34年に東京宝塚劇場が開場する。翌年、有楽座が東宝傘下になり、36年に小林一三東宝社長が株式会社帝国劇場の取締役に就任、37年には帝劇が東宝と合併する。
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小林一三(井上理惠『菊田一夫の仕事』より)
東宝は有楽座と帝劇を手に入れた。明治期に誕生した二劇場は、昭和期に東宝という演劇映画興行会社が運営することになる。東宝は40年2月に松竹との賃貸契約を解消し3月の宝塚歌劇団雪組公演で帝劇演劇公演を再開、44年3月の戦時体制下の全国大劇場閉鎖令まで4年弱、現代演劇を舞台に上げる。
明治期の開場から昭和期の強制閉鎖までの約35年間の帝劇の歴史を見ると、演劇上演は政治・経済に影響され、しかも<演劇芸術>の場の運営は資金が鍵になることが分かってくる。松竹と東宝という近代に登場した興行会社が、東京に劇場を建て、あるいは既存劇場を手に入れて、徐々に大きくなっていく道筋も見えてくる。ここでは三劇場に限ったが、東京の大劇場は、おおむね松竹と東宝とで敗戦までにどちらかの傘下に入る。そして丁度この頃に、新劇団俳優座が誕生した。
◇劇団俳優座の登場
40年は日本のファシズム体制が確立した時で、「皇紀(紀元)二千六百年」の祝典が11月に予定されていた。この夏、リベラル政党は解体し新劇団は強制解散、新劇人(百人余)が逮捕される。新劇の主要な指導者は長い間捉えられていたが、保釈された俳優たちは移動演劇で戦意高揚の芝居を上演せざるを得ない状況に置かれていた。
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「紀元二千六百年奉祝楽曲発表大演奏会」社告(『朝日新聞』1949年12月20日付大阪朝刊)
こうした新劇の状況は、敗戦とアメリカ軍の占領によって180度急転する。敗戦後に刻々と変わる占領軍の文化政策に日本の演劇は、歌舞伎も新派も新劇も振り回される。特に新劇は凄まじかった。が、そのあたりは倉林誠一郎の『新劇年代記<戦後編>』に譲り、現代演劇の拠点となった俳優座劇場登場までの必然を探っていく。
「俳優座」と呼称される対象は二つある。一つは劇団、今一つは劇場。劇団が先で、その後劇場が登場する。千田是也が戦前からの仲間たちと始めた劇団は戦時中に誕生した。40年の新劇弾圧事件で逮捕された千田は巣鴨に拘置されていた。42年6月、公判が始まる直前に出され、控訴審で懲役二年執行猶予三年の判決が出た。それゆえ表舞台には出られないが、次兄伊藤熹朔(装置家)の名で、フエルデイナンド・グレゴリーの『俳優術』の訳編著を出し、劇作家・真船豊の名を借りて何本か演出もしていた。
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千田是也(TMDBのHPより)
劇団俳優座の名称には千田の<俳優を重視>する姿勢、「俳優は、観客と共に、演劇の基本的要素」という主張が出ている。劇団の結成について千田は「俳優座の芽生えは、大政翼賛会の文化部の肝いりで時々催されて詩の朗読会に参加していた東山千栄子、村瀬幸子、岸輝子、遠藤慎吾」等が青山杉作や田村秋子を誘って「昔話や脚本の読合せを始めたのが始まり」だと記す。
「パーマネント禁止」で使われていなかった青山の山野美容研究所を稽古場に借りてレッスンや稽古をした。小澤栄太郎(小沢栄)、東野英治郎、信欣三、永井智雄らが順次参加して「日本の新劇運動史の縦断図でも見るような寄合い所帯のこの劇団」ができあがる。
第一回試演会は44年8月、「日本の河童」「皇軍艦」など4本を国民新劇場(築地小劇場)で上演した。空襲が激しくなると劇団員たちは御殿場に疎開し畑仕事をしながら稽古する。俳優たちは移動演劇連盟に所属し給与を貰い「芙蓉隊」を結成して国策に適う芝居を見せていた。そして45年8月15日、敗戦を迎えたのである。
(つづく。次回は6月26日公開)
<註釈>
註1=米国で実用化されたワイドスクリーン方式の一つの商標(Cinerama)で、スクリーンの縦横比率は1対2.88。
註2=ストレートプレイとは、歌やダンスを用いずに台詞や演技によって物語を展開する演劇を指す。
<参考文献>
保阪正康『近代日本の地下水脈Ⅰ─哲学なき軍事国家の悲劇』文春新書2024
倉林誠一郎『新劇年代記<戦後編>』 白水社 1966
フエルデイナンド・グレゴリー『俳優術』小山書店1943
千田是也『千田是也演劇論集 第1巻』未来社1980
千田『もう一つの新劇史』筑摩書房1975
井上理惠『近代演劇の扉をあける─ドラマトゥルギーの社会学』社会評論社1999
井上「回想の新劇―変貌する概念<新劇>」『築地小劇場100年 新劇の二〇世紀』早稲田大学演劇博物館2024
佐貫百合人『蟻屋物語―戦後新劇の青春』早川書房1979
寺山修司『寺山修司演劇論集』国文社1983

井上 理惠(いのうえ・よしえ)
桐朋学園芸術短大名誉教授、日本近代演劇史研究会代表
東京都出身。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。専門は演劇学・演劇史・戯曲論。吉備国際大学教授、SOAS University of London〔School of Oriental and African Studies〕Visiting Fellow、日本演劇学会副会長(現・理事)などを歴任。著書に『近代演劇の扉をあける─ドラマトゥルギーの社会学』(社会評論社、以下同)で河竹賞受賞、他に『久保栄の世界』、『ドラマ解読―映画・テレビ・演劇批評』、『菊田一夫の仕事 浅草・日比谷・宝塚』、『川上音二郎と貞奴』全3巻、『清水邦夫の華麗なる劇世界』、『村山知義の演劇史』など。主な編著に『木下順二の世界─敗戦日本と向きあって』、『島村抱月の世界─ヨーロッパ・文芸協会・芸術座』、『福田善之の世界』他。共著に『宝塚の21世紀─演出家とスターが描く舞台』など多数。人気ブログ「井上理惠の演劇時評」も随時更新中。