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ストーカー規制法成立25年──なぜ被害は後を絶たないのか(上)
清水 潔(ジャーナリスト)

「桶川ストーカー殺人事件」の被害者である猪野詩織さんの祥月命日に手向けられた花束=事件現場近くの花壇で2024年10月26日、臺宏士氏撮影

社会・教育

仏作って魂入れず──
 警察組織内部に横たわる深刻で根本的な問題……

 ストーカー規制法が成立してこの5月18日で25年を迎える。ところがそんな矢先にむごい事件が発覚した。神奈川県川崎市に住む20歳の女性が、元交際相手の男の家の床下から遺体となって発見されたのだ。被害者は昨年からストーカー被害を受けており、警察に何度も相談していたというが、悲惨な事件を止めることはできなかった。法律があるにもかかわらず、何度も繰り返されるストーカー行為の果ての惨劇。「危機を感じて警察に救いを求めたのに、なぜ助けてもらえないのか?」――。ストーカー行為の抑止の難しさとともに、そこには警察組織内部に横たわる根本的かつ深刻な問題が存在する。

◇「このままでは殺される」──後ろ向きの対応に終始した警察
 ストーカー規制法のはじまりは一つの事件だった。1999年10月に埼玉県で起こった「桶川ストーカー殺人事件」。白昼、駅前で若い女性が男にナイフで刺されて死亡した。被害者は女子大生・猪野詩織さん(21歳)だった。犯人は現場から逃走。当時、私は写真週刊誌『FOCUS』(新潮社・休刊)の記者としてこの事件の取材に関わり、事件発生までの経緯を詳細に知る。被害者はストーカーによる深刻な被害を受けていたのだ。そして彼女は事件前に友人にこう言い遺していた。「私が殺されたら犯人は小松」―――。

猪野詩織さん=清水潔さん著『桶川ストーカー殺人事件─遺言』(新潮文庫)より

 この年の1月、詩織さんは小松という男と偶然に知り会った。男は、車のセールスをしている実業家だと自己紹介した。身長180センチで優しげに笑う男だったが、しかし次第に不審を感じるようなことが起こる。ポケットに無造作に札束が入っていたり、高価なプレゼントを押し付けられた詩織さんがそれを断ると、「俺の気持ちをなぜ受け取れないんだ」と怒鳴ったりした。やがて男は彼女の行動を監視しすべてを把握しようとした。電話にすぐに出ないと怒鳴るなど、その行動はエスカレートしていった。まだ「ストーカー」という言葉すらあまり認知されていなかった時代である。

 小松の危険性に気づいた彼女が別れを切り出すと「俺と別れるなんて許さない」「お前に天罰を下す」などと激高、壁に拳を叩きつけた。あまりの反応に詩織さんは付き合うふりを続ける一方で、複数の友人に不安を打ち明け、男の詳細を話し「私殺されるかも」「ちゃんとメモをしておいて」と頼んだという。6月、そんな状況に限界を感じた詩織さんがはっきりと小松に別れを告げる。すると、その夜に小松を含む3人の男が詩織さんの家に押しかけ「このままじゃすまないぞ」などと、すごみを聞かせたという。詩織さんはその時やりとりをとっさに録音していた。

 翌日、詩織さんは音声テープを持って警察に救いを求めた。所轄は埼玉県警上尾署である。ところが対応した警察官は「ダメダメこれは事件にならないよ」「こういうのは男と女の問題だから警察は立ち入れないんだよ」などと、まともに取り合ってくれなかったという。

 だが事態はそんな簡単なものではなかった。詩織さんも騙されていたのだが、男の素性は池袋で風俗店を何軒も持つ店長だった。彼は自分の部下を使ってチームでストーカー行為を続けていたのだ。詩織さんは知らぬ男に尾行され、家には無言電話が続いた。そして7月には驚くべき事が起こる。詩織さんの顔写真と誹謗中傷の文言を載せたポスターが貼り付けられたのだ。自宅周辺や大学、駅にまで大量に。

 上尾署に被害を訴えても、刑事たちは「取り締まる法律がない」と言い放ち、1日だけ自宅周辺を見張りに来ただけだったという。現在の犯罪捜査のように防犯カメラの映像を確認したり、携帯の通話記録を調べたりできる時代ではなかったとはいえ、 あまりに後ろ向きの対応だった。それでも詩織さんは上尾署へ通った。他に助けてもらえる方法はなかったから。「このままでは殺される」と訴え続けた。結果、上尾署も渋々対応せざるを得なくなる。ただし取り締まる法律がないとして容疑は「名誉毀損」だった。7月末に詩織さんは告訴状を提出し、これで助けてもらえると安堵した。

「桶川ストーカー殺人事件」の現場=2024年10月26日の祥月命日に臺宏士氏撮影

 その後も警察の動きは悪かった。8月になると今度は、詩織さんの父親の会社に親子を中傷する手紙が届く。それも1000通以上というとんでもない量で、もはや異常事態だった。たまりかねた父親が警察にその束を持っていくと担当の刑事は「これはいい紙を使ってますね。手が込んでいるなぁ」と笑ったという。何もしてくれないどころか9月になると担当している刑事が詩織さんの家にやってきて「告訴を取り下げてもらえませんか」と言い出した。詩織さんは、取り下げは拒否したもののショックを受けた。「これはもうしょうがない。私本当に殺される。警察は結局何もしてくれなかった。もうおしまい」と友人に嘆くことしかできなかった。

 そして運命の10月26日。詩織さんは大学へ向かう途中の桶川駅前で待ち伏せていた男に刺されてしまったのだ。「このままでは殺される」。詩織さんのその訴えは悲しい現実になってしまったのである。

◇『FOCUS』記者が警察より先に犯人に到達するおかしさ
 桶川駅前の現場に行ってみれば、その歩道にはたくさんの花束や飲み物、そして知人からの詩織さんへ宛てた何通もの手紙が手向けられていた。私はその場所に手を合わせると、詩織さんに別れと告げにきている人たちに話を聞き続けた。警察に行っても週刊誌記者など取材拒否され相手にはされない。できることはただ現場を巡るだけである。当てもなく、そんな取材を続けていると詩織さんと親しかった友人数名と知り合うことができた。

 彼らこそが詩織さんの「遺言」とも言えるメモを持っていたのだ。小松という男のこと、彼女の身に起きたすさまじいまでのストーカー行為、そして警察の対応。詳しい話を聞いた私は、小松が経営していたという風俗店が集まる池袋周辺で取材を続けた。小松はすでに姿をくらませていたが、一カ月程周辺取材を続けることで関係者と親しくなった。

「桶川ストーカー事件」から25年を迎えて「遺族の思い、取材者の思い」を語るシンポジウムに参加した清水潔さん=2024年11月30日、中澤雄大撮影

 その結果、現場から逃亡した刺殺犯がKという人物であったことを特定する。Kは小松が経営していた風俗店の部下だった。私はストーカーグループが集まる池袋のアジトを発見し、カメラマンと張り込んだ。結果、Kなど事件関係者を超望遠レンズで気づかれないように撮影することに成功する―――。
 大きなスクープになるはずだったのだが、この段階で記事にしてしまえば、雑誌を見た犯人たちは逃亡する。事件解決のためには記事を一旦止め、情報を埼玉県警に伝えねばならない。だがその殺人事件捜査本部とは、よりにもよって詩織さんが「このままでは殺される」と救いを求めたあの上尾署にあった。県警捜査一課の刑事が犯人を捕らえてみれば、それは上尾署が告訴状を受理して放置していた男の部下、ということになる。自らで捜査ミスを証明するという結末なのだ。これで本当に動くのか、という不安は大きく広がっていた。

 そもそも週刊誌記者が警察より先に犯人に到達するというのもおかしな話なのだ。
 そしてまた別の問題もあった。『FOCUS』は記者クラブに所属していない。それを理由に上尾署から私は取材拒否を受けていたのだ。そこで止むなく古くからの友人である新聞記者・高橋秀樹を経由して捜査本部に情報を伝えた。取材はできないが情報は提供し、その記事はまだ書けない………というお人好しの選択をしたのは、事件解決を全てに優先したからだ。

◇加熱したメディア・スクラム──被害者側に非があるバイアス記事を量産、カメラを向けた
 一方、警察発表や夜回りで記事を書き続けていた他のマスコミの記事はといえば、「ブランド品好きな女子大生」「風俗店の店長と付き合っていた」などと、まるで被害者の詩織さんに非があるようなもの記事が多かった。すでに書いたように最後まで小松の素性を知らなかったのにである。警察が、何かの意図を持ってバイアスをかけたような情報を鵜呑みにし、大手メディアの多くが報道被害を巻き散らかしていた。

 その頃、私は詩織さんの遺族の取材をすることができた。詩織さんの家のポストに入れた手紙。それを読んだ父親がなんと電話をくれたのだ。報道陣が被害者の家を取り囲むという、まさにメディア・スクラムの渦中に置かれていた詩織さんの自宅。そこに向かえば、私を知らぬ記者やカメラマンに囲まれ、マイクやレンズを向けられた。それは私自身が報道被害というものの重圧を知るには良い体験だったかもしれない。

 生花の香りが広がる居間。詩織さんの遺影に手を合わせてご焼香をした。ご両親と話ができたことで、遺族の悲しみや、ストーカー行為がいかに尋常でなかったか、そして告訴状を出したにもかかわらず上尾署はほとんど何もしなかったことが改めてはっきりとした。そして私はこれまでの自身の取材で掴んだ事実を伝えた。それらの事実を摺り合わせた結果、警察が隠してきたこの事件の構造が明らかになったのである。捜査ミスを隠蔽したい警察はそれを記者会見などで隠し続けていたのだ。あの日から猪野憲一さんと私は25年を超える信頼関係を築いている。

◇「捜査がまっとうされていれば、死が避けられた可能性もある」
  ──当時の埼玉県警本部長が謝罪

 犯人に直結する情報提供をしても、なお動きの悪かった上尾署。私達が張り込みを続ける池袋のアジト周辺で捜査員を見かけることはなかった。これでは事件は解決しない。やはりなのか………。

 業を煮やした私はついに上尾署に乗り込む。受付のカウンター前に立って取材拒否を続ける副署長に聞こえるように怒鳴った。
 「来週発売の『FOCUS』で桶川駅前殺人事件の容疑者について重要な記事を掲載します。すでにその内容は捜査本部が十分にご存知のはずです、締切は今週土曜日です!」
 それはもはや怒りの声になっていたと思う。週刊誌に記事を書かれようとして捜査本部も焦ったのか、締切寸前になってようやく実行犯のKや、小松の兄など4人を逮捕した。しかし肝心のストーカー小松は逃亡先の北海道で自殺してしまったのである。

女子大生を前に当時の捜査手法やメディア・スクラムの状況などを振り返る猪野詩織さんの両親、京子さんと憲一さん=2025年1月、臺宏士氏撮影

 確かに殺人事件としては解決したが、それは本来、詩織さんが警察に望んだものではなかった。詩織さんはこうなる前に助けて欲しかったのだ。上尾署はなぜ詩織さんの訴えを真剣に聞かずに「告訴取り下げ」まで言い出したのか。動かなかった上尾署の責任を追求する記事を、私は怒りに近い感情で毎週書き続けた。

 それらの記事は国会の予算委員会で取り上げられ警察の対応の問題が指摘される。その後、警察庁の指揮による調べで明らかになったのは、なんと詩織さんの告訴状(調書)を、上尾署の警察官が「被害届」に改ざんしていたという事実だった。それは「告訴します」という調書の文字を2本線で勝手に消し、猪野という印鑑を手に入れて押すというまるで詐欺師のような手口だった。その動機は「告訴となると捜査報告義務が発生するため面倒。これ以上余計な仕事を抱えたくなかった」という呆れるものだった。

 これにより埼玉県警は本部長以下12名が処分され、改ざんに関わった刑事は、虚偽公文書作成などの責任を問われ3人が懲戒免職となった。本部長は記者会見で「名誉毀損の捜査がまっとうされていれば、このような結果(詩織さんの死)が避けられた可能性もある」と対応の悪さを認め頭を下げた。

 その後、この事件の警察対応の問題は国会でも取り上げられ、その結果ストーカー規制法案が提出される。そして規制法が成立したのが事件から7カ月後の2000年5月18日のことだった。

 警察が対処できないというストーカー問題が一歩前進したことは確か。これで「取り締まる法律がない」という警察内での問題は解決されたはずだった。だが本当にそうなのだろうかと、この時の私の中に何か未消化のものが残留していたことは間違いなかった。そしてその予感は次第に現実のものとなっていった………。

(つづく。次回は5月29日公開。更に詳しく知りたい方は『桶川ストーカー殺人事件──遺言』を参照されたい)

【略歴】
清水 潔(しみず・きよし) ジャーナリスト、危機管理コンサルタント
1958年東京都出身。新潮社『FOCUS』編集部記者などを経て、2001年より日本テレビ報道局へ。調査報道やドキュメンタリー番組を多数制作し、報道局特別解説委員などを歴任。「桶川事件」では警察より先に犯人を特定し、「足利事件」では冤罪の可能性を確信し、キャンペーン報道を続けて無罪へとつなげた。10年以上にわたって取材・番組制作における危機管理を担当。早稲田大学大学院非常勤講師も務める。主な受賞歴に警視総監感謝状、日本ジャーナリスト会議大賞、日本民間放送連盟最優秀賞、日本民間放送連盟テレビ報道部門優秀賞、新潮ドキュメント賞、日本推理作家協会賞、ギャラクシー賞優秀賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞、早稲田ジャーナリズム大賞(公共奉仕部門)。主な著書に『桶川ストーカー殺人事件──遺言』『殺人犯はそこにいる』『「南京事件」を調査せよ』『騙されてたまるか 調査報道の裏側』『鉄路の果てに』など。共著に『裁判所の正体 法服を着た役人たち』など。

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